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2018-11-09

【連載 名力士たちの『開眼』】 横綱・2代若乃花幹士編 悲しみとの闘いの中で触れた人生の核心――[その3]

※写真上=昭和52年夏場所、初優勝を決め師匠・二子山親方(右)らの祝盃を受ける若乃花
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

父の死に目に会えず、失意の大関デビュー

 直径4メートル55。この見方によっては小さい円が、いかに非情で過酷なものか。言葉のうえではともかく、本当に分かっている人は意外に少ない。

 若乃花が大関に昇進したのは昭和52年(1977)初場所後のことだった。そして、昇進のお祝いラッシュが一段落した2月の半ば、若乃花は一人、9年前に隆の里と上京したときと同じ名前の寝台車、『ゆうづる』に乗って雪が1メートル近くも積もっている郷里の青森に帰京した。ずっと咽頭がんのために弘前市の弘前大学医学部付属病院に入院していた父親の正一さん(当時67歳)の症状が、かなり深刻なものになっていたからだった。

「会えば安心して、かえって症状が進む、ということもあるんだ。次の春場所も迫っているし、無理して帰ることはないんじゃないか」

 と、二子山親方(元横綱初代若乃花)はこの帰郷に反対したが、小さいころから可愛がられ、若乃花の出世を何より楽しみにしていた父親だけに、東京でじっとしていられなかったのだ。

「でも、男って、いざ病院に訪ねていっても、なんにもやることがないんだよね。せいぜい顔を見て、もう使うことはないってわかっているんだけど、帰り際にそっと小遣いを渡すのが精一杯だったなあ」

 と、若乃花改め間垣親方(当時)は話していたが、この慌ただしい「お見舞い行」で気持ちに一応の区切りがつき、相撲に集中できるようになったのは確か。何しろ目の前に、注目の大関デビューが待っていた。

 しかし、あと4日で初日、という3月7日の午後、ついにこの正一さんが病院のベッドで帰らぬ人に。この悲報は、ただちに大阪の二子山部屋の宿舎にもたらされたが、二子山親方は、

「大事な場所前だ。下山(若乃花)にこのことを言っちゃならない」

 と部屋中に箝口令を敷き、3日後、若乃花が人づてに聞くまで何も知らせず、黙っていた。

 大阪から青森まで、行って帰ってくるまでおよそ3日。無理すればできないことはないが、もしそうすればせっかくここまで積み重ねてきた稽古がフイになる。関脇なら多めに見てもらえても、大関は協会の看板力士、プライベートなことで自滅するような危険行為は許されない。

 かつて自分も巡業中に父親を亡くし、飛んで帰りたくても帰れなかったというつらい経験をしていることもあって、二子山親方は、

「非情なようだが、知らせずにおくことが一番だ」

 と判断したのだ。そして、若乃花が父の死を知ると、こう言って一緒に泣きながら、葬式に出席するのを止めた。

「お前の気持ちは、痛いほどわかる。オレも人の子、すぐにでも帰らせてやりたい。でも、初日まであと何日あるか、数えてみろ。ここは、自分の置かれた立場を考えて我慢してくれ。今は、1本の線香よりも、白星を1つずつ積み重ねることが、お父さんへの何よりの供養になるはずだ」

 正一さんの葬儀は3月10日、午前11時から郷里の大鰐町・青柳会館でしめやかに営まれたが、そこに若乃花の姿はなかった。涙を拭って春場所に打ち込む決心をしたのだ。

昭和52年初場所後、大関昇進を果たした若乃花
写真:月刊相撲

人生の核心に触れた大奇跡

 しかし、まだ23歳の若乃花に、勝負師に徹して悲しみを超越しろ、と注文するのは無理。場所中、毎晩のように酒で感情を麻痺させ、千鳥足で宿舎に帰る若乃花の姿が見られた。

 こんな不節制、さらに新大関という目に見えないプレッシャーも重なって、この場所の若乃花は散々。中盤、3連敗していち早く優勝戦線から脱落し、9勝6敗という無残な成績に終わっている。

 千秋楽の打ち出し後、新幹線、寝台車を乗り継いで一目散に正一さんの墓前に駆け付けた若乃花は、間もなく体調の異常を訴えて、いつもの福島県石川町に直行、そのまま菊地院長の娘婿が経営する田中内科医院に入院した。春場所の二重苦、三重苦がたたって、肝炎を起こしていた。

 退院許可が出たのは、なんとそれから1カ月半後。夏場所初日まで、たった1週間しかなかった。文字どおりのぶっつけ本番だ。

 ところがその場所、若乃花は、13勝2敗で初優勝する、という大奇跡を起こしてしまった。

「まったく稽古していなかったので、長引いてはだめ、と思い、徹底して早い相撲を取ることを心掛けたのがよかったのかもしれません。でも、あれは人生にはいろんなことがある、くじけずに一生懸命やっていれば、そのうちにきっと素晴らしいことがあるよ、と神様がオレに教えてくれたんじゃないかなあ。そう思うようにしているんです。だから、弟子たちにも、諦めたらおしまいだぞ、頑張れ、と毎日のように言い聞かせているんですよ」

 58年初場所6日目に引退。58年12月に間垣部屋を興した若乃花は、このとき、相撲はもちろん、人生の核心にも触れたのだった。(終。次回からは関脇・富士櫻栄守編です)

PROFILE
若乃花幹士◎本名・下山勝則。昭和28年(1953)4月3日、青森県南津軽郡大鰐町出身。二子山部屋。186cm129kg。昭和43年名古屋場所初土俵、48年名古屋場所新十両、同年九州場所新入幕。52年初場所後、大関昇進。同年夏場所初優勝。53年夏場所後、第56代横綱に昇進すると若三杉から若乃花に改名。幕内通算55場所、512勝234敗70休、優勝4回、殊勲賞2回、技能賞4回。昭和58年初場所、29歳の若さで引退。年寄若乃花から同年5月に間垣を襲名、12月に分家独立。前頭大和、五城楼、若ノ城、若ノ鵬らを育てた。平成25年12月19日、退職。

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