果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。
※〝猛牛〞と呼ばれた激しいぶちかまして、遅咲きの横綱昇進を果たした琴櫻
写真:月刊相撲
夏の陽の中で木の葉がキラキラと踊っている。相撲を取り終えたあとのほてった体に、城跡の木立を縫って渡ってくる風は値千金だったが、今日の心地よさは、また格別だった。
「関取、とうとうやりましたね。おめでとうございます」
と琴櫻は付け人たちの祝福に思わずにっこりし、それから慌てて鷹揚にうなずいた。なんといっても、まだ十両に成りたてのホヤホヤ。やることなすこと不慣れで、さまにならないのだ。
しかし、土俵に上がると別。わずか3年半で十両に駆け上がってきた勢いと、ひたむきさがうまく相乗効果を発揮し、なんと千秋楽、宮ノ花、若鳴門、東錦ら4人による決定戦を制し、いきなり新十両優勝という大ホームランをかっ飛ばしてしまったのだ。
「こりゃ、手強いヤツが上がってきやがったぞ」
と先輩力士たちが目を丸くして見つめているのが振り向かなくても肌で分かり、それが琴櫻の喜びを2倍にも3倍にもしたが、周囲が騒げば騒ぐほど、心の隅に一人の力士の顔が浮かび上がり、それが優勝を決めたあともしこりとなって引っかかっていた。年齢は2つ年下だが、初土俵は1年兄弟子の川内(のち先代逆鉾、昭和38年廃業、井筒部屋)だ。
「この鳥取出身で、大成した力士は一人もいないんだ。オレも昔、プロの力士と相撲を取って死ぬ思いをさせられたことがある。相撲界というところは、ワシら鳥取県人がやっていけるような社会じゃないんだ。悪いことは言わん。止めろ」
と、当時鳥取県倉吉市の倉吉警察の警部で、息子を東京の警視庁の柔道師範にすることをずっと夢見ていた父親の猛反対を押し切り、琴櫻が師匠の佐渡ケ嶽(元小結琴錦)の勧めで東京見物に上京、そのまま国技館の土俵に上がってしまったのは、昭和34年(1959)初場所のことだった。
このとき、琴櫻は倉吉農高2年生で、柔道三段。選手不足の相撲部のピンチヒッターとして急きょ駆り出され、たった1週間稽古しただけにもかかわらず、鳥取県大会でいきなり優勝。さらに中国5県大会も制し、ちょうど自分の体に秘められた思いがけない才能に目覚めたときでもあった。
「オレたちには相撲は向かない? そんなバカな話ってあるかい。ようし、そんならオレが入門してそんなことは決してない、鳥取県人だって、ちゃんとやれるんだということを実証してやる」
という、いかにも怖いもの知らずの若者らしい熱気にかられていたのだ。
今に見ていろ、と心の中で、父親や、周りの人々に宣戦布告してのプロデビュー。もともと父親に小さいときからたっぷりしごかれた柔道の素地があった上に、稽古熱心。しかものちに〝猛牛〞というニックネームを付けられたほどの突進力の持ち主だけに、出世はトントン拍子。
序ノ口から7場所連続勝ち越し、三段目東17枚目で初めて負け越したあと、またまた6場所連続して勝ち越し、1年で幕下に昇進している。
ところが、こんな破竹の勢いの琴櫻の目の前に、ヒョイと立ちはだかるのが川内だった。
こちらも中学時代に鹿児島県大会で優勝したことがある元柔道少年だったが、相撲っぷりは、琴櫻が持ち前のパワーを生かした融通の効かない直線型に対して、全身これバネ、の川内は、押してよし、引いてよしの万能型で、さながら弁慶と牛若丸のように対照的。琴櫻が、もうあと一押し、というところまで攻め込むのだが、最後には運動神経のいい川内にいいようにあしらわれ、逆転される、というパターンが初めて二人が三段目で顔を合わせた35年春場所からずっと続いていたのだ。
幕下を卒業するまで4戦して4敗。そろって十両に昇進したこの37年名古屋場所もそうだった。2日目に対戦し、琴櫻は、またしてもその出鼻を思いっ切りたたきつぶされてしまったのだ。
「一体どうしたら、あの川内に勝てるんだろう?」
この難問を解決しない限り、たとえ新十両で優勝しても、腹の底から笑えない。なんだか借り物の優勝のような気がして仕方なかったのだ。
「よかったなあ。さあ、飲め」
と、部屋に凱旋し、師匠に注がれたご褒美の酒の中にも川内の冷ややかな顔が浮かんでいた。
しかし、翌場所、琴櫻はようやくこの初対決から2年半も心に突き刺さっているトゲを抜くヒントをつかむのに成功した。
これまで琴櫻の頭の中には、いつも川内の華麗な引き足や、変化ワザのことがあり、そのためにどうしても思い切って当たることができなかった。
ところが、この場所は、前半から負けが混んでいたこともあって、半分、破れかぶれ。9日目に川内と顔が合ったときも、ただもう全力でぶちかましていくだけで、相手の攻めのことまで考える余裕はなかった。
「ガツン!!」
すると、どうだ。あれほど琴櫻を苦しめていた川内が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして土俵際まで後退。ふっと気が付くと、重ね餅に寄り倒していた。6戦目で初めて勝ったのだ。
琴櫻は、勝ち名乗りを受けながら、信じられない思いと同時に、心の奥で小さな灯がパッとついたような気がした。
「今までは負けることばかり気にして、肝心な自分の持ち味を出すことを忘れ、そのためにかえって相手の術中にハマっていた。オレにも相手にはない良さがある。こんなふうに、まずそれを出し切るようにすればいいんだ」
その2場所後の38年初場所、琴櫻はまたまた2度目の十両優勝をやってのけた。今度も前回の対戦でつかんだヒントを生かして川内に快勝し、しかも13勝2敗という数字的にも文句なしの優勝だった。琴櫻は、3場所前と同じように師匠に注いでもらった祝い酒を口に含みながら、これが本当の美酒というんだな、と思った。(続)
PROFILE
琴櫻傑將◎本名・鎌谷紀雄。昭和15年(1940)11月26日、鳥取県倉吉市出身。佐渡ケ嶽部屋。182㎝150㎏。昭和34年初場所初土俵、37年名古屋場所新十両、38年春場所新入幕。42年秋場所後、大関昇進。47年九州、48年初場所と連続優勝し、第53代横綱に昇進。幕内通算65場所、553勝345敗77休、優勝5回、殊勲賞4回、敢闘賞2回。昭和49年名古屋場所前に引退、年寄白玉から佐渡ケ嶽部屋を継承。大関琴風、関脇琴錦、琴富士、琴ノ若ら関取22人を育てた。平成11年11月停年退職、19年8月14日没、66歳。
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