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2018-08-24

【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・若嶋津六夫 編 日本酒効果、土壇場の開き直り、自らを知る[その1]

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

※精悍な顔つきと豪快な塩まきで人気を集めた若嶋津
写真:月刊相撲

油断から生じた痛恨の取りこぼし

 もったいないなあ。でも、仕方ないさ。たいして稽古してないんだもの。

 若嶋津(当時の四股名は日高。のち若島津から若嶋津に改名。ここでは、若嶋津で統一)は照れ笑いを浮かべ、人いきれのする館内を見渡した。こんなときにはどうしたらいいのか。正直いうと、そうする以外に分からなかったのだ。

 それは入門して2年目、九州場所のことだった。やはり出身地の鹿児島に近い福岡はいい。ときどき、桟敷席の思いがけないところから、

「こりゃ、気張らんかい」

 という懐かしい鹿児島訛りの叱咤が飛んでくる。その度に若嶋津はくすぐったい思いがし、同時に、

「そうだ、こんなことでくじけてどうするんだ!」

 と自分を鞭打った。

 その1場所前の昭和51年(1976)秋場所、それまで順調に番付を駆け上がってきていた若嶋津は、場所前の稽古で左足首を捻挫し、入門10場所目で全休。このまま、オレはもうだめになるんじゃないか、と夜もなかなか寝付かれないような不安にさいなまれる、という初めてのつらい経験をしたばかりだった。

 無理やり目をつぶると、鹿児島で自分の出世を心待ちにしている年老いた両親の顔が浮かんでいた。

「まるでぴょん、ぴょん、跳ねているみたいじゃないか。それだけに体に弾力がある証拠。どうだ、ウチ(鹿児島商工高、現樟南高)に入学して相撲をやってみないか」

 と一目惚れし、相撲のイロハから手ほどきしてくれた恩師の坂口監督の顔も。

 ここでオレがつぶれたら、さぞガッカリするだろうな。みんなの失望する姿を思い浮かべると、いても立ってもいられない思いだった。

 その捻挫もようやく癒え、2場所ぶりに踏んだ土俵の感触は、何ともいえないぐらい心地よかった。汗のしみ込んだ廻しのムッとする匂いですら、新鮮な感じがする。

 このすっかり充電された意気込みと、先場所の休場で番付が三段目の東62枚目から序二段の東45枚目まで急降下したこともあって、この九州場所の若嶋津は初日から快調だった。それこそ苦もなく7戦全勝をやってのけ、千秋楽の優勝決定戦を迎えたのだ。

 相手は、この年の初場所に初土俵を踏んだばかり、というまだプロ10カ月余りの槍竜(花籠)という力士だった。入門が1年早く、しかも鹿児島商工高相撲部が国体で全国制覇をやってのけたときの主力の一人だった相撲経験者の若嶋津にとっては、どこからいっても負けるはずがない相手である。

「よし、(優勝は)もらった!」

 と、若嶋津の脳裏には、もう土俵に上がる前に勝ち名乗りを受ける自分の姿が浮かんでいた。

 その不遜さが相撲っぷりにもありありと。さあ、どっからでもかかってきやがれ、といわんばかりに、若嶋津は得意の左四つになると吊り、寄りで強引に攻めまくった。若い槍竜はあっという間に土俵に詰まり、ほとんどあきらめ顔で、ほんのわずか、体を左に振った。それは、この日、槍竜が試みた唯一の抵抗だった。

 ところが、相手の力を見くびり、かさにかかって攻めていた若嶋津には計算外。慌てて体勢を立て直そうとしたが、すっかり勢いがついていたために、思わず右足がひょいと土俵外に飛び出してしまったのである。

「あっ、いけない」

 と踏み切った右足を思わず浮かしたが、もう遅い。勇み足だ。

 悔しいけど、負けは負け。痛恨の取りこぼしを演じた若嶋津は、ため息と失笑が渦巻く館内から逃げるように花道を下がり、付け人をしている貴ノ花(当時大関)の開け荷が置いてある支度部屋に駆け戻った。

昭和50年春場所、初土俵を踏む(二列目、右から二番目)

憧れの兄弟子・貴ノ花から愛のムチ

 あとで冷静に振り返ってみると、このときの顔に、まだ照れ笑いの残滓が張り付いていたのは確かだった。それを、若嶋津がまだプロ入りか、大学進学かで心が揺れ動いていたとき、二子山親方(元横綱初代若乃花)の名代としてわざわざ鹿児島まで口説きに現れ、それがきっかけで何かと目にかけてくれている兄弟子の貴ノ花は見逃さなかった。

「この野郎、負けて帰って来て、ニヤニヤしているヤツがあるかい」

 という貴ノ花の罵声と、鉄拳のどちらが早かったか。そのときの若嶋津はよく分からなかった。とにかく気が付くと、左の頬の辺りがジーンとしびれ、目の前に、初土俵を踏んだ50年春場所、ドラマチックな初優勝をやってのけ、ああ、オレもあんな力士になりたい、と尊敬していた名大関の険しい顔があった。

 言われてみると、確かにそのとおりだった。今のオレは、負けた悔しさを笑ってごまかそうとしている。貴ノ花に怒られて、急に素直に悔しがれない自分が卑しく、小さな人間に見えた。

「すみません。自分が間違っていました。これから気を付けます」

 と、若嶋津は目が覚めた思いでペコリと頭を下げながら、これで怒られるのは入門して二度目だな、と思った。

「馬鹿野郎ッ」

 と最初に怒鳴られたのは初土俵の次の場所だった。高校相撲で鳴らしただけに、序ノ口あたりの若嶋津は敵なし。初日から快調に白星を重ね、4連勝で8日目にあっさり勝ち越しを決めた。

 若葉が燃え立つような五月晴れの日で、ニコニコしながら部屋に帰ってきた若嶋津は、兄弟子たちに見習って師匠の二子山親方の前に行くと、

「お陰さんで、給金が直りました」

 と大きな弾むような声で勝ち越しを報告した。すると、二子山親方は、ギョロッと目をむき、

「なんだ、そのくらいで喜ぶんじゃない。お前はここからじゃ」

 と早々に追い返され、それから5日後に7戦全勝で優勝を決めた後、やっと、

「そうだ、その意気でこれからも頑張れ」

 と温かい言葉を掛けてもらったのだ。キャリアがキャリアだけに、入門したときから周囲の期待は大。この師匠の叱咤に続く貴ノ花の鉄拳で、若嶋津はあらためてそのことを思い知らされたのだった。

「プロの水にもちょっと慣れて、少しいい気になっていたのかもしれないな。人間、自分に素直になれなくなったら、おしまいだ。こんなふうに、ごまかしてばかりいると、稽古に対する情熱もだんだん薄れてくるもんな。これからはもっと謙虚な気持ちで土俵に上がり、負けたら悔しがれる力士になろう」

 夜、若嶋津は、布団の中で少し腫れてきた頬をなでながら、しみじみと自分に言い聞かせていた。

 このときの発奮がいかに真剣なものだったか。この翌場所、再び三段目に復帰して6勝1敗と大勝ちするなど、その後の順調な足取りによく表れている。

 負けて覚える相撲かな。若嶋津は、とんだポカで序二段優勝はフイにしたものの、その後、それに勝るとも劣らない貴重なものをしっかりと獲得したのだった。(続く)

PROFILE
若嶋津六夫◎本名・日高六男。昭和32年(1957)1月12日、鹿児島県熊毛郡中種子町出身。二子山部屋。188㎝122㎏。昭和50年春場所初土俵、55年春場所新十両昇進時に日高から若島津に改名、56年初場所新入幕。57年九州場所後、大関昇進。58年秋場所、若嶋津に改名。59年春場所初優勝。幕内通算40場所、356勝219敗13休、優勝2回、敢闘賞2回、技能賞3回。62年名古屋場所で引退後、年寄松ケ根を襲名。平成2年1月に独立して松ケ根部屋を創設、26年12月には二所ノ関に名跡変更。小結松鳳山、幕内若孜、春ノ山らを育てる。

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