果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。
※二十歳で入幕を果たし、4場所目で関脇まで駆け上がった保志(のち北勝海)
写真:月刊相撲
ちくしょーっ、どうせオレは小物だ。
「なんたって、師匠に忘れられていたんだもの」
という捨てばちな思いが、ことあるごとに頭をもたげては、ささやかな自尊心をズタズタに傷つけた。それにしても、あんな人をバカにした話があるものか。
「オレは絶対、力士になる」
と北勝海が言い出したのは中学1年になったばかりのときだった。当時の北勝海は柔道少年で、学校ではまさに敵なし。身長はまだ170センチ足らずだったが、その馬力と足腰の良さは、ひと目見たある知り合いが部屋を興して間もない九重親方(元横綱北の富士、この当時の名跡は井筒。昭和52年10月に九重に名義変更)に、
「こっちにいい子がいますよ」
と慌てて連絡をとったぐらい光っていた。
このため、その1年生の夏、北勝海は母と二人で、札幌で合宿を張っていた井筒部屋の稽古を見学。
「厳しい稽古をその目で見たら、この子の、力士になりたい、という熱も下がるのでは」
という母の淡い期待を裏切って、北勝海の相撲熱は一段と熱くなった。
ところが、その合宿見学のとき、
「そうか、力士になりたいか。よし、わかった。でも、今のままではまだ身長がちょっと検査に足りないので、もう少し大きくなってからだ(当時の新弟子検査合格基準は173センチ以上)。大きくなったらすぐ迎えにきてやる。なあに、学校は部屋から近くの学校に通えばいいんだから」
と九重親方と固く約束したにもかかわらず、その後、まったくのなしのつぶてで、それこそウンともスンとも言ってこない。翌年、この北勝海の力士志願を遅ればせながら知った出羽海部屋から、
「それなら、いっそのこと、ウチに来ないか」
とスカウトの手が伸びてきた。
どうしたらいいのか、不安と困惑のとりこになった北勝海は、勇気を奮い起こすと、震える指で、
「何かあったら、ここに電話しろ」
と教えてもらっていた東京の九重部屋の電話番号をおずおず回した。
「あのう、ボク、北海道の保志(北勝海の本名)です」
すると、受話器の向こうから北勝海の予想もしなかった九重親方の言葉が響いてきた。
「保志? あっ、いかん。すっかり忘れていたよ。それで、もう大きくなったのか。よし、それじゃ、これからすぐ、迎えに行くから」
ちょうどそのころ、周りの大人たちの間では、年齢は北勝海よりも一つ上だが、やはり柔道をやり、郡内ではいつも優勝の常連だった隣の芽室町の青木康(のち横綱大乃国)という少年のことが大きな話題になっていた。
向こうは、有名な東海大四高からのスカウトを断り、以前から熱心に誘っていた大関魁傑(放駒親方)の説得に応じ、いよいよ入門することが決まったという。
「どこまで出世するか、楽しみだね」
こんな会話を耳にするたびに、この〝隣町の星〞と前後して故郷を後にすることになった北勝海の心は複雑だった。同じ入門のための状況でも、青木と北勝海とでは、師匠の態度があまりにも違い過ぎていたからだ。それはとりも直さず、二人の力士としての素質の違いを意味する。
昭和53年(1978)4月、部屋の近くの江戸川区立瑞江二中に転校し、翌54年3月の春場所、待望の初土俵を踏んだ北勝海の心に、このことがいつまでもしこりとなって残った。
田舎町では少しは目立った金の卵でも、全国から逸材が集まってくる東京では、十把ひとからげの石ころなのだ。その雑草が、見るからにきらきら輝いている超エリートと争い、これに勝つにはどうしたらいいか。
北勝海がこの厳しい出世レースの中で、手にしている有利な材料は、
「本当の勝負は、まだ今じゃない。十両、三役に上がってからだよ」
と戦いのときを知っていることだった。
では、そのときに備えてどうしたらいいのか。北勝海の力士としての稽古は、ここから始まった。
「まず勝っても負けても、とにかく元気のいい相撲を取ろう、と心掛けたんですよ。君ケ濱親方(元関脇北瀬海)にも、お前はうまい相撲なんか、取らんでいい。馬力のある相撲を取れ、としつこく言われていましたし。うまい相撲を取る人は、いくらでも上がいますからね」
平成4年夏場所直前、あっさりと引退し、現役の四股名のまま親方になった北勝海は、このスタートラインに立った13年前を振り返った。
〝壁〞の到来をいち早く予測し、早め、早めにその対策を立てるのも、胸に真っ赤な炎を燃やす北勝海が自分に課した長期戦略のひとつだった。(続く)
PROFILE
北勝海信芳◎本名・保志信芳。昭和38年(1963)6月22日生まれ。北海道広尾郡広尾町出身。九重部屋。181㎝151㎏。昭和54年春場所初土俵、58年春場所新十両、同年秋場所新入幕。61年春場所、関脇で初優勝。同年名古屋場所後に大関、62年夏場所後に第61代横綱に昇進。幕内通算52場所、465勝206敗109休。優勝8回、殊勲賞3回、敢闘賞3回、技能賞5回。平成4年夏場所前に引退。一代年寄北勝海から八角として、部屋を経営。第13代日本相撲協会理事長。
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