そっと風呂場の戸を開けると、おカミさんと目が合った。やっぱりニラんでいる。
「すみません、おカミさん。親方は大丈夫ですか」
「大丈夫も何もあるかい。見てごらんよ。こんなひどい目に遭わして。背中なんか擦りむけて真っ赤っかじゃないか。もう親方は現役をとっくに引退してんだよ。少しは手加減してもいいじゃないか。どうしてくれるんだい」
江戸っ子だけに歯切れが良くて、ひとこと、ひとことがまるで針か何かのように胸に突き刺さってくる。「すみません」と、もう一度、ペコリと頭を下げて逃げ出そうとすると、それまでつんつんしていたおカミさんが急に小さくククッと笑い出した。
「でもまあ、あなたも、いつの間にか強くなったもんだねえ。あの親方をぶん投げちゃうんだから。親方も『あの野郎、横綱のオレをガイにしやがった(おもちゃにすること)』って笑っていたよ。これなら、関取になるのも、もうすぐだねえ。今の調子でしっかり頑張るんだよ」
「はい」と返事をして部屋の外に出ると、背中は汗でびっしょりだった。でも、気分は「おカミさんんが呼んでるよ。何だか怒っているみたいだぞ」と、先ほど兄弟子に脅されたときと一変し、体の奥底からじわっと、なにか妙に温かくて力強いものに満たされていくのがよく分かった。
「ようし、どのくらい強くなったのか、これからオレがテストしてやる。まだまだお前なんかに負けるものか。遠慮しないで、思い切りかかってこい。5番勝負だぞ」
と、突然、師匠の春日野親方(元横綱栃錦)が言いだしたのは、栃東が幕下時代、昭和40年(1965)のはじめ、朝の稽古がもう終わりかけたときだった。
かつて若乃花(初代、当時二子山親方)と「栃若時代」を築き、大相撲人気を二分したこの人気力士も、引退してもう4年余り、親方業がすっかり板についてきていた。弟子の育成の方も、先代から譲り受けた古手の成長に加えて、昭和35年(1960)10月の引退相撲直後に、福島県の相馬市から原町工高を1年で中退して入門した「一番弟子」の志賀改め栃東も、ひと踏ん張りで十両に手が届くところまで出世してきている。
ところが、この春日野親方には、何をやるにも先輩力士たちの後ろに隠れ、稽古場でもどこにいるのか分からない栃東が、どうしてこんなに順調に伸びてくるのか、さっぱり分からない。そこで、子供がいないこともあってますます旺盛になってきた茶目っ気を発揮し、自分でその謎を解くことにしたのである。
幸いなことに、現役時代の晩年から膨らみ出したお腹は、最近の運動不足でますます立派にせり出し、見た目には誰にも体力負けしない。
これと対照的に愛弟子の栃東は、入門のときに体重が規定の75キロに足りず、昔から新弟子たちに愛用されている即製ウエートアップ法の一升瓶の水を、下をうつむけばこぼれるまでがぶ飲みし、やっと身体検査に合格したエピソードを持つ、やせのガリガリ。この4年余、新弟子のときの「78キロ」から1キロも増えず、若者頭と顔を合わせる度に、「一体お前は、毎日、食ったものをどこに出しているんだ。この無駄飯食いめが」と皮肉や小言を言われていた。
オレは、あの巨漢の大内山や松登を首投げや二枚蹴りで破るなど、土俵の中を縦横無尽に暴れ回り、名人といわれた男だぞ。まだまだこんな小僧っ子に負けるものか。ひと捻りしてやる。久し振りに廻しを締めて土俵に降りた春日野親方は、本気でそう思っていたのだ。
さあ、どの手でやっつけてやるか。得意の出し投げか、それとも立ち合い一気の寄り倒しか。
しかし、春日野親方は栃東と体が触れた瞬間、このわずかな間に自分の体がすっかりなまってしまったことを直感した。と同時に、このおとなしい愛弟子の強さが本物であることも。
ふわりと自分の体が浮いたような気がした。春日野親方は、はっとして体勢を立て直そうとした。しかし、ときすでに遅し。土俵の砂を背にひっくり返っているのは自分である、という厳しい現実を否応でも認めないわけにはいかなかった。それも、5番とも。
「おい、カシラッ(若者頭)、こいつは無駄飯は食っていないぞ。みんなの分からないようなところに力を隠していやがる」
その夜、栃東は布団の中で、いかにもうれしそうに大笑いする師匠の顔をいつまでも思い浮かべていた。(続く)
PROFILE
とちあずま・ともより◎本名・志賀駿男。昭和19年(1944)9月3日生まれ。福島県相馬市出身。春日野部屋。177㎝115㎏。昭和35年九州場所初土俵、40年夏場所新十両、42年春場所新入幕。47年初場所で幕内最高優勝。最高位は関脇。幕内通算59場所、404勝448敗23休。優勝1回、殊勲賞4回、技能賞6回。昭和52年初場所限りで引退。平成2年(1990)に玉ノ井部屋を創設、次男の大関栃東(現玉ノ井親方)らを育てた。平成21年9月停年退職。
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