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2018-11-02

大学卒業後に急上昇! 北海道から夢の2020へ 「営業マン」甲斐耕輔の「競泳道」

※写真上=今季の日本ランキングでは7位に位置する甲斐
写真◎黒崎雅久/スイミング・マガジン

高3のインターハイは44人中41位

 高校3年生で迎えた2011年盛岡インターハイ、男子100m自由形予選。記録は自己ベストの54秒21、順位は44人中41位。

 7年後の今年9月上旬、社会人3年目で出場した社会人選手権(新潟・長岡)100m自由形決勝。記録は予選でマークした自己ベストをさらに0秒39上回る49秒45、順位は2位。

 甲斐耕輔というスイマーの足跡である。

 この事実を知ったのは、山梨学院大の神田忠彦監督のSNSがきっかけだった。甲斐は、男子自由形の江原騎士(現・自衛隊体育学校)や女子平泳ぎの鈴木聡美(現・ミキハウス)ら現役五輪メダリストを育て上げた名伯楽の教え子の一人だったわけだが、失礼ながらも、水泳関係者からすれば、無名の選手だ。

 調べてみると、無理もなかった。大学時代も目立った戦績はなく、現在の所属はルスツリゾート。ん? 北海道有数のリゾートホテル勤務? 競泳との縁は? それでも、社会人3年目にして、大幅に自己ベストを更新している。いったい、ここまでどんな競技人生を送ってきたのだろう?

 そんな興味が頭の片隅に残ったまま、足を運んだ福井国体取材。甲斐本人が北海道代表として出場していたので、声をかけてみた。

引退レースのはずが、初の日本選手権標準突破

 まずは、甲斐のこれまでの歩みを振り返る。

 小学校2年のときに水泳を始め、出場基準をクリアして公認大会に初出場したのは中学3年のときだった。専門は当時から自由形短距離である。

 北海道立大麻高に進学した甲斐は、1年目にリレー種目でインターハイに出場したが、「きちんと標準記録を切ったわけではなく、道大会で3位以内に入っての出場でした」。個人種目では2年時に50m自由形、3年時には冒頭で紹介した100m自由形に出場も予選落ちだった。

 大学は、「甲斐という苗字でもあったので」と冗談を前置きにして、「いろいろな情報を得る中で、自ら」山梨学院大に進学した。「でも正式な部員になるための標準記録に届いていなかったので、水泳部には一般生として入部して、6月くらいにようやく正部員になれました」。インカレは個人種目で1年目に50m自由形、2年からは100m自由形と合わせて出場し、すべて予選落ち。最後のインカレが終わっても、一人で練習をこなしていたが、就職も決まっていたため、卒業と同時に競技から身を引くつもりでいた。自己ベストは大学3年時の51秒05である。

ところが、就職を控えた2016年2月、転機が訪れる。

 北海道の全国JO杯春季予選。地元の友人と「シニアの僕らが出て盛り上げられれば」という思いと、自身の引退レースとしての位置付けでタイムトライアルに出場すると、100m自由形の日本選手権参加標準記録を初めて切ったのである。しかもその日本選手権はリオ五輪の代表選考会という最高の舞台だった。

「自分はやめるつもりでいたのですが、就職の面接のときに、会社から『業務をこなしながら、大会に出るのは構わない』と言っていただいたので、すぐに電話して『日本選手権に出られるようになったのですが』と伝えました。ちょうど新入社員研修の時期にあたるので、担当の方が上司に掛け合ってくださり、出場できることになりました。幸運にも、1フリの予選の日が新人社員研修の休みの日にあたっていたのです」

 レース前1週間は研修のため全く練習できなかったが、本番では51秒02と自己ベストを更新した。さらに翌2017年にも2年連続で日本選手権に出場。予選で50秒35と大幅な自己ベスト更新で17位となり、棄権者もいたため、B決勝を泳ぐ機会にも恵まれた。

 そして今年も3年連続で日本選手権に出場し、50m自由形では準決勝に進出。100m自由形では社会人選手権で一気に自己ベストを更新してみせた。

“練習の仕方改革”と身体の使い方の探求

 甲斐は現在、故郷・北海道のルスツリゾートの営業マンとして多忙な日々を過ごしながら、勤務後にひとり、時に友人とともにプールに赴き、練習を続けている。

 仕事は午前9時から18時までが基本で、残業になる日もある。練習場所としている市民プールは5カ所ほどあるが、どこも勤務先からは車で片道1時間以上かかる。冬場は、車に雪が積もるため、雪かきをスムーズに行なわないと練習に支障をきたすこともあり、帰宅が23時を過ぎることもあるという。

 大会出場のため、片道5時間のドライブで函館まで足を運ぶこともあるが、「そんな生活が楽しい」と屈託なく笑う。

「練習は週4~5回。でも水中練習は30分前後で、プールに入る前にドライランドを少しやるくらいです。長いときでも45分、短ければ25mを1本ダッシュして終わるときもあります。社会人になると、仕事での疲れが当然蓄積されていきますので、そういう中で、“練習の仕方改革”を行ないました。3000~4000m泳ごうとすると、1回はできても、同じ量を継続してこなすことができない。距離を泳ぐことが目的になってしまうと、質の面で妥協していることになってしまいます。ですので、ハードのメニューもマックス200mまでと決めています。その中で集中して、毎回全力を出しきるのです」

 甲斐なりの競技生活の流儀を貫きながら、記録が一番伸びている要因は、身体の使い方を勉強したことだという。

「高校までは水中練習さえすれば速くなると思っていましたが、山梨学院大では懸垂やドライランドを含め、陸トレが泳ぎに生きることを学びました。それが一人で練習している今でも、すごく役に立っています。記録が伸びているのは、自分で考えて身体の使い方を追求しているからだと思います。言葉にすると難しい部分もありますが、例えばタッチするときの腕の伸ばし方であったり、ストロークの力の入れ方であったり。体幹を軸に力を効率よく発揮する方法を模索している感じです」

営業マンとして多忙な日々を送る中でも、自己探求で自己ベストを更新し続けてきた
写真◎黒崎雅久/スイミング・マガジン

 それにしても、である。

 大学卒業まで個人種目で全国大会の決勝にも進出できなかった選手が、仕事優先の生活を送りながら、この2年半で100m自由形の自己ベストを1秒60も更新する――。気が付けば、日本代表がうっすらと見える49秒5を切るレベルに到達。大学4年時の日本ランクは60位、以降、34位、25位と1年ごとにステップを踏み、2018年は一気に7位へ――。

 話を聞けば聞くほど、驚きが増していくのだが、それは、甲斐本人にとっても同じようだ。

「1フリで50秒を切ることは、高校時代からの夢でした。それは同じ北海道出身の佐藤久佳さん(2008年北京五輪400mメドレーリレー銅メダリスト)が日本で初めて50秒の壁を破った姿に憧れたからです。あのとき(2005年)のインカレ(400mフリーリレー予選第一泳者)の映像は何度も見返してきましたが、まさか自分が社会人になって本当に50秒を切るとは思ってもみなかったですから」

 今後も現在の生活を続けながら、自己ベストを追求していくという甲斐。2年後には東京五輪というビッグイベントがあるが、自身の目標はどこに置いているのか、尋ねてみた。

「東京五輪は…、意識はしています。でも、東京五輪に行く、と思ってしまうと、まだ夢の段階なので、次は48秒台を目指して頑張っていきたいです。こんな練習ですけど、佐藤さんに続いて、北海道の選手として48秒台も出したいと思います」

 自身の人生の中で、ひたむきに取り組み、そして楽しむことを純粋に実践してきた。その道をこれからも歩み続け、48秒台という目標に近づいたとき、「夢」もまた自然と目標に変わっていくのかもしれない。

文◎牧野 豊/スイミング・マガジン

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