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2018-01-17

●スペシャルインタビュー 引退から約2年 北島康介が歩み続ける “セカンドじゃない”キャリア~前編~

 東京都渋谷区にある瀟洒な街・代官山。その一角に、北島康介が代表取締役社長を務める(株)IMPRINTの事務所がある。同じビルには、同社が運営するAQUALABという流水プール(写真上)、3階には北島がゼネラルマネジャーを務めるPerform Better JapanがプロデュースするFLUX CONDITIONINGSというトレーニング施設が入っている。
 

 競泳界のレジェンドである北島は今、スーツに身を包み、さまざまな事業を展開する一方、今年で3回目を迎える自らの名前を冠した競泳競技会、KOSUKE KITAJIMA CUP 2018(第11回東京都選手権水泳競技大会/今年は1月27、28日の2日間、東京辰巳国際水泳場で開催され、入場無料)の運営、様々な日本のスポーツシーンに携わるなど、その存在感を発揮している。

 引退から約2年。今回、「セカンドキャリア」を大きなテーマとしてインタビューを依頼したが、話が進むにつれ、この言葉に対する北島独自の解釈が見えて、実に興味深いものに。

 その魅力は、現役時代と変わらぬものだった。

★「大学卒業後も、いかに長く選手として食べていけるかを考えていました」

――北島さんは大学時代からプロ選手として世界のトップレベルで活躍し、卒業後も泳ぎ続けてきましたが、セカンドキャリア、引退後のことを初めて考えたのはいつごろですか。

北島 20歳くらいのころですね。ただ、当時はいかに大学卒業後もできるだけ長く選手として食べていけるか、できればプロ選手として活躍を続けることを考えていたので、水泳を完全に辞めた後のことをそこまで深くは考えていませんでした。

 自分のみならず、スイマーなら誰しも、引退後の生活について不安を抱えてはいると思います。水泳しかやってこなかった人間がプールから上がったときに一般社会に適応していけるのか。オリンピックは4年に1度ですから、そのサイクルの中で自分がどういう人生を歩んでいくのか。早い段階でここまでやって就職する、いやもう4年頑張ってみたいと考えるのかは人それぞれだと思いますが、これは競泳に限らず、他のオリンピックスポーツのアスリートに共通していると思います。

――北島さんの場合は初めてオリンピックに出場したのが高校3年(2000年シドニー五輪)、金メダルを狙いにいった2度目の2004年アテネ五輪が大学4年生のときだったので、巡り合わせ的には良かったかもしれません。

北島 そうですね。自分の場合は競技成績が向上したことと符号する形で、大学3年生のときにプロ選手となりマネジメント会社に所属して活動することになりました(大学2年時に200m平泳ぎで世界新記録を樹立、同3年夏の世界選手権では100、200m平泳ぎをともに世界新記録で優勝)。大学卒業後も就職しなくても活動していく道筋が拓けたので、選手のまま社会人としていろいろ学んでいけたと思います。

 当時、一部の人からはプロ選手としての活動をうらやましがられたり、特別視されていたかもしれませんが、自分としてはプロになった以降も、同年代の選手たちとはそれまで同様に同じ仲間として、社会人になったら今度は世界を目指す後輩とともに互いに高め合いながら、一生懸命取り組んでいました。それが長く現役を続けられた一つの要因でもあったと思います。自分一人だけで長く活動していたのではなく、そうした世界を目指す日本の仲間とともに成長できたことは大きかったと思います。

――とはいえ、日本初のプロスイマーでしたので、常に結果を問われる立場でした。

北島 確かにそうでしたけど、自分としては結果以外の部分にも魅力を感じていただいたことが幸いでした。選手として結果を出してくれるだろうという期待感のみならず、CMやメディアを通して自分自身が発する言葉等でパーソナリティを知っていただくなど、一人の人間として見てもらうことができたと思います。

――北島さんの登場によって、日本にも大学卒業後に現役を続け、世界で上位を狙える選手も増えてきました。企業の理解、トレーニング環境の充実も含めて今はかなり恵まれた状況だと思います。

北島 そのきっかけに自分がなっているとしたら、それはありがたいことです。ただ、競泳だけでなく日本の他の競技でも世界のレベルで戦える選手が増えるにつれ、期待値も上がり、どんどん厳しい目で見られるようになってきています。その点は今の若い選手たちに課せられた課題かもしれません。

現役時代にはあまり話題にならなかったが、新たに米国に拠点を置いた2009年に現在の会社を設立した

★現役時代に現在の会社を設立した経緯

――2008年の北京五輪で平泳ぎ2冠連覇を達成して以降、しばらく休養して、米国に拠点を置いて再び泳ぎ始めましたが、実は今の会社を設立したのはそのころでした。現役選手を続けながらも、会社を立ち上げるに至った経緯をお聞かせいただけますか。

北島 北京五輪までは日本を拠点に選手として相当なプレッシャーを受けて活動していたので、そこでひと区切りして休養を取ることはもともと考えていたことでした。自分の人生を今後どう歩んでいくかをいったん水泳から離れて考える中で、一つの選択肢として今の会社を設立しました。

――当時は現役続行か否かということも、ずっと、注目されていました。

北島 明確に引退ということは考えていなかったですし、逆に必ず現役を続けるとも思っていない、何とも言いようがない時期でしたので、時間はかかりましたね。その間に現在の共同経営者である大窪のり子と出会いました。彼女自身も以前の会社を辞めて、次の展開を考えているときでした。自分としては現役続行か否かに関係なく、米国に生活拠点を置くことは決めていたので、海外生活経験のある彼女からアドバイスをもらいながら、その延長で会社設立の話が出て、自分が現役生活を続けることにも理解を示してくれたので、一緒に展開していくことになりました。その中で、まずは自分で自分のマネジメントをやっていこうと思ったのです。

 休養期間には、いろいろなイベントや仕事を経験させていただきましたが、自分は芸能界には向いていないと感じていましたし、時間を重ねるごとに水泳への愛情が沸きあがってきました。最終的に米国で再び泳ぐことを決断したわけですが、その後は大窪をはじめ、周囲の方々の協力を得ながら自分の活動を応援してもらい、また水泳以外の部分はいろいろ教えてもらいながら、自分の知らないことを吸収していこうとしていました。

 米国に行ったことで選手としてのみならず、水泳以外の分野でも新しい出会いがたくさんありました。また、中学時代から指導していただいた平井伯昌コーチ(現・東洋大)とも新しい関係を築けましたし、今の事業内容につながっている部分もあります。振り返れば、自然な流れでもあったし、現在に至る大きな転機になったと思います。

――引退後のことも考えての会社設立という意味もあったのですか。

北島 そこまで強くは思っていませんでした。ただ、引退した後でも自分で勉強して、階段を上っていく場にはしたい、逆に引退したからといって、階段を下がる人生にはしたくないという思いはありました。

 自分は水泳をずっとやってきたし、その部分でも当時はまだまだ戦うつもりでプールに戻ってきたので、自らの口で「会社を始めました」とは言いませんでした。それは「もう次のこと(引退後)を考えているな」とか「水泳のこと、真剣に考えているのか」というふうに周りから思われたくなかった部分もあります。幸い、米国に拠点を置いたので、そうした声が自分の耳には届かなかった。あと、選手として自分が思っていた以上に早い段階で良い状態まで戻すことができたので、周囲も再び選手としての自分にフォーカスするようになっていました。

★「セカンドではない」キャリア

――プロ選手の活動以外では、キタジマアクアティクスというスイミングクラブも立ち上げています。

北島 水泳の普及を目的として立ち上げ、今年で8年目を迎えます。最初は自分がスイミングクラブを運営することは難しいと思っていたのですが、現役時代の仲間でもあった細川大輔が引退後に一般の人への水泳指導を行なっていたこともあり、一緒にやっていくことになりました。2009年以降は、米国に拠点を置いて新しい水泳人生を歩み始めていましたし、このころは学生のときよりもセカンドキャリアについて考えていなかったかもしれません。

――考えていなかったというのは?

北島 いろんな意味の捉え方があるかもしれませんが、水泳選手にとっては大学卒業が一つの大きな区切りです。そのころは現役でしたけど、社会人として5年以上経っていましたからね。そもそも自分のキャリア(人生)はキャリアなので、セカンドキャリアという言葉自体がおかしいというか、ピンとこない部分があります。

――なるほど。

北島 アスリートの引退後として使用される言葉であることは理解していますが、選手だろうが何だろうが、結局、キャリアって自分がどうやって生きていくかということなので、「セカンド」という概念自体が自分には、あまり入ってこない感じです。

Part 2に続く

聞き手・文◎牧野 豊

●Profile
きたじま・こうすけ◎1982年9月22日生まれ、東京都荒川区出身。文京区立千駄木小―文林中―本郷高―日本体育大―日本コカ・コーラ。現役時代の専門種目は平泳ぎ。5歳から東京スイミングセンターで水泳を始め、ジュニア時代から全国大会で活躍。高校3年時に2000年シドニー五輪でオリンピック初出場(100m4位)。翌01年の福岡世界選手権の200mで銅メダルを獲得すると世界のトップスイマーへの階段を駆け上がり、2002年釜山アジア大会200mで自身初の世界新記録を樹立。2003年バルセロナ世界選手権では100、200mともに世界新記録で優勝を果たす。そして2004年アテネ五輪では平泳ぎ2種目において金メダリストに。その後も世界選手権をはじめ国際大会で活躍を続け、2008年北京五輪ではオリンピック2大会連続での平泳ぎ2冠(100mは世界新)、400mメドレーリレーで銅メダルを獲得した。米国に生活拠点を移したのち、1年の休養を経て09年6月から競技を再開し、その後も国際大会で活躍。2012年ロンドン五輪に出場し、個人種目では100m5位、200m4位に終わったが、400mメドレーリレーで銀メダルを獲得した。2016年まで現役を続け、4月の日本選手権(リオ五輪代表選考会)を最後に現役引退を表明した。4回のオリンピックでの通算メダル獲得数は金4、銀1、銅2の7個。
現在、2009年に設立した(株)IMPRINT及び、パフォームベタージャパンの代表取締役社長、東京都水泳協会理事を務めるなど、多忙な日々を送っている。家族は妻と長女。

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