※写真上=昭和47年初場所、当時史上最年少18歳7カ月で入幕した北の湖
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】中学1年で三保ケ関部屋に入門し、怪童と呼ばれた北の湖だが、三段目に昇進した場所で7戦全敗の屈辱を味わう。しかし開き直って自分の相撲に徹し、自信と弾みをつけると、史上最年少で十両へ駆け上がる――

史上最年少入幕から大物ぶりを発揮

 関取になってからの北の湖は、まさに順風満帆だった。昭和47年(1972)初場所、18歳7カ月という、これまた貴花田(のち横綱貴乃花)に更新されるまで史上最年少記録をつくり、いったん十両に滑り落ちたが、この年の夏場所、再入幕してからはすっかり定着。翌48年初場所には19歳7カ月という三役の最年少記録もつくっている。

 そして、その年の九州場所、北の湖は、

「ピンチはチャンス、たとえ苦しい状況に追い込まれても、白旗を上げたらおしまい。そこで、思い切ってひと踏ん張りすると、道は必ず開ける」

 という、人の歩みにも通じる貴重な「教え」を得た。

 この場所の北の湖は、前の場所、初めて小結で勝ち越して、関脇に昇進。いよいよ大物ぶりを発揮し始めたときだ。

 優勝したのは、12日目にケガをし、14日目、千秋楽と休場しながら、それまでの貯金がモノを言って逃げ切った輪島だったが、北の湖も14日目まで9勝2敗で優勝争いの輪の中に食い込むなど、好調そのもの。連日、若さと馬力にモノを言わせて土俵狭しと暴れまくっていた。

 12日目の相手は「突貫小僧」の富士櫻だった。ちょうど相撲が面白くなりかけていたときだけに、こういう、真っ向から思いっきり攻め込んでくる力士は望むところ。いつものように思い切ったカチ上げで富士櫻の突進を止め、素早く左を差すと、機を見て下手投げを打った。完全な北の湖ペースの展開だ。

 ところが、余りにもその投げが強引だったために、左ヒザが入り過ぎ、傾きかけた富士櫻の体重がその下の足首にモロにかかることに……。その瞬間、北の湖を、今まで経験したことがないような痛みが駆け抜け、「怪童」はそのまま押し潰されるように崩れ落ちてしまった。

 好事魔多し、とはこのことで、3敗目を喫した北の湖は、着替えもそこそこに病院に駆け込んだ。見る見るうちに足首が大きく腫れ上がり、何か重大な異常が発生した兆候をハッキリと示していたからだ。

画像: 昭和48年九州場所12日目、富士櫻戦で左足首を負傷してしまう 写真:月刊相撲

昭和48年九州場所12日目、富士櫻戦で左足首を負傷してしまう
写真:月刊相撲

のちの北の湖をつくった一大転機

 協会指定の病院の診断は、単なる捻挫だった。しかし、手当をしてもらったあとも痛みが消えず、左足のカカトをつけられない北の湖を見て、師匠の三保ケ関親方(元大関初代増位山)は、

「敏満(北の湖の本名)、無理をして余計悪くしたらモトも子もないぞ。明日から休め」

 と休場を勧めた。

 ところが、北の湖は、この病院の診断を信じ、

「せっかく9勝したんですから。ここで一ケタで終わるのと、二ケタに乗せるのとでは、あとで大きく違ってきます。なあに、捻挫ですから、ちゃんとテーピングしたら大丈夫ですよ」

 とこれを拒否。

 翌日の13日目、左の足首を包帯でグルグル巻きし、つま先で歩きながら土俵に上がった。まさに若くて意気軒昂な北の湖の意気込みを絵にしたような格好だったが、勝負の世界はやはり甘くない。北の湖は、この日の天龍戦、14日目の前の山戦と、いずれも相撲にならず完敗してしまった。

 しかし、最後の千秋楽。ついにこの北の湖の気迫が天に通じた。ちょっとでも立ち止まったり、後退すると左足が痛み、相撲を取るどころではなくなるため、負傷後の北の湖は、ただ思い切り当たって一直線に攻め込むだけ、という、将棋の香車のような相撲だった。このイチかバチかの体当たり攻撃に、とうとう大麒麟が屈し、待望の10勝目を挙げたのだ。

「もしあそこで師匠の勧めに応じて休場し、8勝止まりだったら、翌場所後、大関に昇進することはなかったでしょうし、行司の軍配が返ったら、絶対後ろに下がらず、ぶちかまして一気に攻め込む、という相撲も、モノにできてはいなかった。ケガの功名、という言葉があるけど、自分にとってもあのケガは、のちの北の湖をつくった一大転機でしたねえ。あの場所後、あまりにも足首の痛みが引かないので、別の病院で診てもらったんですが、結果を聞いてビックリしました。レントゲン写真に、左足の甲の骨が見事に折れているのがクッキリと写っていたんですから。痛みが完全に消えるまで、3年ぐらいかかったかなあ。左足首の包帯は、とうとう引退するまで取れませんでした」

 北の湖親方は、この死中に活を拾ったことを、こう話す。

 北の湖が、この、体を張って身に付けた速攻相撲で、並みいる先輩力士を吹っ飛ばして初優勝し、21歳2カ月で史上最年少の横綱を目指してダッシュしたのは、翌49年初場所のことだった。(続)

PROFILE
北の湖敏満◎本名・小畑敏満。昭和28年(1953)5月16日、北海道有珠郡壮瞥町出身。三保ケ関部屋。179cm169kg。昭和42年初場所初土俵、46年夏場所新十両、47年初場所新入幕。49年初場所初優勝、場所後、大関昇進。同年名古屋場所後、史上最年少の21歳2カ月で第55代横綱に昇進。幕内通算78場所、804勝247敗107休、優勝24回、殊勲賞2回、敢闘賞1回。昭和60年初場所、引退。一代年寄を贈られ、同年12月、北の湖部屋創設。平成14年2月、相撲協会理事長に就任。在任中の27年11月20日没、62歳。


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