※写真上=強烈なぶちかましで上位キラーとして恐れられた「デゴイチ」黒姫山
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

力道山に憧れた少年時代

 夢というのは、なんとはかないものなのか。すでに30年近い歳月が流れようとしているのに、いまでも黒姫山の胸に、ひょいとあのあっけなく夢がはじけた少年の日のことが甦ることがある。

 新潟県西頸城郡青海町(現糸魚川市)。冬になると、1メートル余りも白いものが積もる雪深い町である。

 ここで生まれ、育った黒姫山は、小学校4年から中学2年までの5年間、毎朝、新聞配達を日課にしていた。北国だけに、執拗な眠気と闘わなくてはいけない夏はともかく、冷たい雨の朝や、たちまち雪が頭から真っ白に染めてしまう冬のつらさは、とても言葉や文字では言い表し難い。

「担当は120部。毎朝、午前5時にオフクロに起こしてもらい、新聞販売店に行って、その120部に広告を挟み、自分の担当地区を配って回るんです。全部、配り終えるのに、ちょうど1時間かかりました。自分は、男ばかりの3人兄弟のちょうど真ん中で、上の兄がやっぱりヨーグルトを配っていたんですね。一人だったら、とってもあんなには続いていませんよ」

 と昭和57年(1982)初場所限りで丸18年にわたる現役生活にピリオドを打ち、古巣の立浪部屋で後輩たちの指導や、巡業部委員として協会の仕事に励んでいた元黒姫山の武隈親方は、この歯を食いしばって朝の町を走り回った少年時代を振り返る。

 この早朝のアルバイト料が月に2000円。そのうちの1500円を母親に渡して、残りの500円が黒姫山の1カ月の小遣いだった。しかし、この中からノートや鉛筆など学用品を買うと、もうほとんど残らない。

「今に見ておれ」

 と天を仰いで唇をかみしめるような毎日だった。

 ただ、こんな黒姫山にも一つだけ、胸を焦がす大きな楽しみがあった。当時、人気全盛だったプロレスだ。憧れのレスラーは、もちろん、空手チョップが売り物のスーパースター・力道山である。

 新聞配達のアルバイトで唯一の余禄は、無料で新聞を読める、ということだ。朝の配達が終わり、プロレスの記事が大きく載っているスポーツ新聞を一部もらって帰るときが、黒姫山の一番の幸せなときだった。

 大急ぎで自宅に帰ると、そのプロレスの記事を、それこそ隅から隅まで読み、さらにハサミで切り抜いて、画用紙に貼って大事に取っておくのだ。そのスクラップは、

「オレも、中学を卒業したら、プロレスに入って、力道山のようなレスラーになるんだ」

 という夢を抱いていた黒姫山の、何物にも代えられない宝物だった。

 ところが、いよいよ中学卒業が目前に迫り、その夢を実行に移そうとしていた矢先の昭和38年暮れ、いつものようにスポーツ新聞を広げた黒姫山の目に、ガーンと頭のテッペンを思いっきりブン殴られたようなショッキングな文字が飛び込んでいた。

 暴力団員に刺され、東京の病院に入院していた憧れの人・力道山が腸閉塞を起こして急死したのだ。享年39歳。正確な日付を言うと、昭和38年12月15日のことだった。

「オレ、ホントにあの人のこと、尊敬し、憧れていましたからねえ。あの亡くなった日のことを知った日は、ショックでなにも手につかなかったなあ。ああいう人は、絶対に死なない、と頭から思い込んでいたもの。力道山が好きで好きで、プロレスラーになりたい、と思っていたんですから、亡くなったら、もう行ったってしょうがない。オレは、これから一体どうしたらいいのか。そういう思いもありましたねえ」

 この日を境にして、プロレスラー志望の少年の運命は大きく方向転換することになった。担当の先生の教え子が立浪部屋後援会の事務局長をやっていたことから、急きょ、大相撲入りの話が進み、第二の力道山から横綱を目指すことになったのだ。

画像: 十両昇進は同部屋の旭國(左、のち大関)、出羽海部屋の三重ノ海(のち横綱)と同時だった 写真:月刊相撲

十両昇進は同部屋の旭國(左、のち大関)、出羽海部屋の三重ノ海(のち横綱)と同時だった
写真:月刊相撲

厳しい現実に直面した十両昇進

 この力道山の死から3カ月後の翌39年2月、黒姫山は師匠(立浪親方、元横綱羽黒山)から送られてきた支度金の2万円で特急の一等車の切符を買い、新潟から春場所直前の大阪にたった一人で向かった。心細さと希望が交錯し、列車に乗り込むまでホームで小さく足踏みしていた日のことも、黒姫山の脳裏にいまだにくっきりと焼き付いている。

 それから5年。44年初場所、幕下西筆頭の黒姫山は、最後の七番相撲で十両の嵐山(高砂)を、蒸気機関車のD51からつけられた「デゴイチ」というニックネームそのままの激しいぶちかましから一気に押し出して4勝目を挙げ、20歳3カ月で待望の十両昇進を決めた。

 それは、まさに「開眼」に値する会心の相撲だったが、実はこの後、黒姫山はこの十両昇進決定に浮かれていられないような厳しい現実にさらされ、自分の相撲の分析など、する余裕を失ってしまったのだ。

 というのも、十両になると、力士たちは、土俵入り用の化粧まわしや、紋付きなどを用意しなくてはいけない。この関取になるための支度代が、当時のお金で100万円以上。それまで無給の黒姫山には、とても自前で用意できる額ではない。一体どうやってこれだけの大金を捻り出せばいいのか。その金策を迫られたのである――(続)

PROFILE
黒姫山秀男◎本名・田中秀男。昭和23年(1948)11月12日、新潟県糸魚川市出身。立浪部屋。182cm147kg。昭和39年春場所初土俵、44年春場所新十両、同年名古屋場所新入幕。関脇8場所、小結を10場所務めた。幕内通算72場所、510勝570敗、殊勲賞4回、敢闘賞3回、技能賞1回。昭和57年初場所、引退。年寄錦島、山響、出来山、北陣を経て武隈を襲名。平成11年(1999)3月には息子2人とともに独立(16年まで)。その後、友綱部屋付きとなり、25年11月停年。


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