昭和43(1968)年3月の大阪・春場所、立浪部屋の若浪は平幕優勝を飾っている。

※写真上=戸田が無敵大鵬の連勝を45で止めた昭和44年春場所2日目、立浪部屋の宿舎には後援会関係者とともに多数の報道陣が詰めかけた。北出アナウンサー(手前右)らに交じって首を乗り出すようにして質問をくり出す筆者
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

1968~69キーワードは「大金星」

 若浪は小学生で16貫(60キロ)の米俵を担ぎ、中学生で25貫(94キロ)の漬物石を運び、三段目時代には大阪場所の宿舎である「大宝寺」の40貫(150キロ)の墓石を移し、幕内に入ってからは48貫(180キロ)の義ノ花を吊り上げている。

 一方、土俵を離れれば斗酒辞せぬ豪快な飲み方、ノド自慢で村田英雄の『王将』を披露していた。

 そんな若浪も8貫(29キロ)の天皇賜盃を手にしたときは栄光の重さに足元がふらついていた。

 ところが大宝寺に戻って大盃にそそがれた美酒を実際にグイッ、グイッと飲んでウィンクした。あんな光景、後にも先にも見たことない。

 43年10月、大阪準場所中、新入幕を決めていた花田(のち大関貴ノ花)は「霊友会第八支部」の二子山部屋の朝の稽古をサボろうとした。

「土俵の鬼」の兄・師匠の二子山親方(元横綱・初代若乃花)が竹ぼうきでメッタ打ち、布団は鮮血で染まった。

 しかし翌日、花田はミミズ腫れの背中をあえて見せながら「どうってことないよ」であった。「獅子の子落とし」を思わせるものがあった。

 44年3月の春場所2日目、戸田(のち羽黒岩)は“王者”大鵬の連勝を「45」で阻止の大金星を挙げた。

 夜、いつもは静寂な大宝寺へ、取材というより「祝福」に訪れると、戸田の丸っこい顔に笑みがこぼれていた。

 だが、ヒーローは、一夜明けると顔を曇らせることになった。大事なその一番の「世紀の誤審」が明らかになったからだ。戸田はまるで敗者扱い?

 場所後、桜花の中の春巡業、戸田と藤ノ川の同期の桜、金星と三賞獲得の仲良し若手コンビは明るく行動を共にしていた。

 その春場所の覇者・琴櫻は、今治市の旅館で電話していた。「相手? ウン、ボクのいい人」と琴櫻。そして意外にもその「いい人」は電話を代わってくれたりした。

「いつもお昼の稽古の後とか夕方ですね。毎日だから話すことがないでしょう。だから『そちら(宮崎)の天気はいかがですか?ってね――」。この時点では笑い話。

 実は、琴櫻は1年前(43年)の12月1日、宮崎の巡業先でその「大金星」に会って一目惚れすると、翌日から45年6月2日、東京・赤坂の東急ホテルでの結婚式前々日までの1年半の毎日、宮崎に住む章代さんに電話をしている。計算すると「愛の長距離電話連続546日」であった。

 50年春場所、大関貴ノ花が初優勝を遂げた。優勝旗を手渡す二子山審判副部長、「鬼の目に涙」があった。

 なお、羽黒岩の、このプリンス「貴ノ花」との対戦成績は8勝3敗1不戦勝であった。

 東京・墨田区両国駅のほど近くで安代夫人が「スナック・とも」を経営していた。戸田智次郎と友達の「友」から「とも」としたものだった。

 大鵬を破った殊勲の“突貫小僧”戸田は、雷親方として停年を迎えた3年後の平成28(2016)年10月23日、故郷の宮崎県で安代さんに看取られて天国に旅立った。

 日本のスポーツ界にとってエポックメーキングな勝負判定ビデオ採用のきっかけとなったキーマンだが、訃報を聞いて、天国の「友」を仰ぎ見る思いだった。

語り部=野崎誓司(元本誌記者)

月刊『相撲』平成28年12月号掲載

おすすめ記事

相撲 2020年3月号


This article is a sponsored article by
''.