――行こうか、それともやっぱりやめようか。

※写真上=麒麟児から大麒麟に改名後、大きく成長し大関の座をつかんだ
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

学業あきらめ相撲に専念、順調な出世を果たす

 さっきから大麒麟(初土俵のときの四股名は本名の堤。麒麟児を経て昭和45年夏場所、大麒麟と改名。ここでは便宜上、大麒麟で統一する)は、なかなか踏ん切りがつかず、迷い犬のように何度も宿舎の前の細い道を行ったり来たりしていた。

 春がそこまでやってきているせいか。大阪の空は明るい光に満ちあふれ、肌を刺す北風にもほのかな温もりがある。大麒麟には、それが東京にいるときよりも距離が半分になった故郷の佐賀の息づかいのように感じられた。

 佐賀を出てまもなく3年になる。大麒麟の脳裏には、力士になる道を選択するまでの悶々とした日々や、まるで戦場に赴く兵士のような悲壮な決意で東京に旅立った日のことが、昨日のことのように生き生きと息づいている。

 柔道では佐賀県の中学生大会で優勝し、勉強でもいつも学内のトップクラス。文武両道に秀で、末は東大か京大かと期待を集めていた大麒麟が「中学を卒業すると力士になる」ということを決めたとき、周囲は一斉に驚いた。

「あんなに頭のいい子がどうして力士なんかに」

 と思ったのである。しかし、そんな周囲のいぶかりや驚きが、逆にやる気に火をつけた。この決意の裏に、同じ佐賀県出身の師匠、二所ノ関親方(元大関佐賀ノ花)の、

「東京に出てこい。そんなに勉強したいんなら、部屋から高校だって大学だって行かせてやる」

 という一言があったことを皆は知らない。上から続けて3人が男、という5人兄弟の三男で、両親に経済的な負担をかけられないことを大麒麟は小さいときから熟知している。自分を生かす道はこれしかない、と判断したのである。

 ただ、大麒麟が故郷での高校進学をあきらめて上京を決意するまで、どのくらい心が揺れ動いたか。佐賀高といえば県下でも指折りのハイレベル高で、毎年、東大合格者を何人も出している。その佐賀高に願書を提出し、入試を受けて「合格通知」を手みやげに入門するつもりだったところに心の揺れがよく表れている。

 しかし、このもくろみは実行に移されなかった。

「お前の気持ちはよく分かるが、大相撲に行くと決めたんなら受験するのは止めとけ。お前の実力なら受ければ合格する。でも、お前の代わりに、誰か一人落ちなきゃいかん。それはムダなことだし、身代わりに落ちるヤツがかわいそうじゃないか」

 と、試験の前日に担任の先生に説得されたのだ。佐賀は葉隠の里で武士道発生の地だ。潔さもまた良し、とする風潮が染み込んでいたのである。

 大麒麟が上京したのは昭和33(1958)年春だった。さっそく師匠に伴われて部屋に近い墨田区緑町にある深川高の夜間部の入試を受けて合格。しばらくして「教科書代として3000円持って来られたし」という通知が来た。力士と高校生の二足のわらじの始まりである。

 しかし、大麒麟はこの通知を手にためらい、やがて血を吐く思いで高校進学を断念することにした。教科書代が払えなかったワケではない。師匠に言えば入門するときの約束だから何にも言わずに出してくれるのは分かっている。ただ、夜間部の授業が始まる午後3時、4時というと、新弟子たちにとって兄弟子たちの雑用や夜のちゃんこの準備などに追い回されて一番忙しいときだ。

「学校に行ってきます」

 と自分だけ抜け出せるような雰囲気ではとてもないことを、大麒麟がいち早く見てとったのである。

 大麒麟は、満たせなくなった向学心を稽古に向けた。そうするしかうっぷんを晴らす方法がなかったのだ。

 おかげで出世は順調そのものだった。初めて序ノ口西8枚目に四股名が載った33年名古屋場所から2年後の35年名古屋場所まで、13場所も連続して勝ち越しか、五分(当時の幕下以下は1場所8番制)の成績を挙げ、14場所目の秋場所には早くも幕下に駆け上がっている。中学時代に柔道をやっていたことや、後年、砂袋のようだと評された足腰の重さもこのスピード出世に大いに貢献していた。(続) 

PROFILE
大麒麟将能◎本名・堤将能。昭和17年6月20日、佐賀県佐賀市出身。二所ノ関部屋。182cm140kg。昭和33年夏場所、本名の堤で初土俵。37年名古屋場所新十両、麒麟児に改名。38年秋場所新入幕。45年夏場所、大麒麟に改名。同年秋場所後、大関昇進。幕内通算58場所、473勝337敗49休。殊勲賞5回、技能賞4回。49年九州場所に引退し、年寄押尾川を襲名。50年、押尾川部屋を創設、関脇青葉城、益荒雄らを育てた。平成17年部屋を閉じ、18年6月退職。22年8月4日没、68歳。

『VANVAN相撲界』平成7年5月号掲載

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