平成30(2018)年1月26日、栃若時代から始まって柏鵬黄金時代の終わりまでしっかり見届けつつ、内外タイムス紙、そして本誌で健筆をふるった“最後の大鵬記者”吉川亨氏が天寿を全うし93歳で亡くなった。氏は歴史的な『原石大鵬発見!』撮影にかかわった幸運と仕事を終生の誇りとしていた。そのときの写真に寄せる思いを書いた文章が残されている(編集部)。

※写真上=大鵬親方が稽古場に掲げるなど、大切にしていたのが、入門翌日のこの一枚。16歳、身長180センチ、体重71キロ
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

世紀の“僥倖”取材!

 大鵬の師匠・二所ノ関親方(元大関佐賀ノ花)は、大鵬がスターの座についてからも「ワシと大鵬との巡り合いは、天の配剤だったとしか思えない」とよく言っていた。その言葉は決して作り上げられたものではないことは、彼が新弟子として入門してくるころの、二所ノ関親方の行動でも明らかだった。

 紅葉山というかつての力士が廃業して、北海道へ帰るとき、親方は、「どうかいい新弟子を世話してくれよ」と、ねんごろに頼んでいる。

 その紅葉山からの手紙を受け取った二所ノ関親方は、まだ見てもいない新弟子を想像して心を躍らせた。喜久子夫人をすぐ呼んで、「オイ、今度来る新弟子は素晴らしいぞ」と“予言”して、夫人に笑われたという話もしていた。

 昭和31(1956)年7月、部屋に現れたのはほっそりとした、色白で目の澄んだ可愛い少年だった。親方自身も彼を土俵に上げる前の初対面時には、格別にその将来に期待を抱いた様子はなかったようだ。

 しかし、9月場所前、つまり納谷(本名)が初土俵を踏むという数日前になると――。『内外タイムス』で、ちょうど“稽古場巡り”の取材を担当していた私は、二所ノ関部屋の稽古を見ていたあと、親方と雑談を交わしていた。

 私が「近ごろいい新弟子は入っていませんか」と質問すると、二所ノ関親方は目を急に輝かせると、「オーイ、納谷、ちょっと来い」と怒鳴ったのである。親方が間髪を入れず、新弟子を呼んだのである。かつてこんなことはなかった。私はすっかり親方の気合に呑まれてしまっていた。

 そして、そこにやってきて「ボク、納谷です。よろしく」と、ぴょこんと頭を下げた新弟子に、なぜか心惹かれ、写真を撮ることになったのである。普段なら一介の若い者の写真なんぞ撮らずに引き揚げるのが例だったが、私は同行のカメラマンに撮影を依頼していた。

 カメラマンはカメラマンで文句も言わず、納谷に注文を付けて、テッポウをやらせ、仕切りのポーズをとらせた。

 納谷は師匠の前でやや緊張しながらも、悪びれずレンズに収まった。彼が新聞社のカメラマンに撮影されたのは、おそらくこのときが初めてだったろう。

 私としても、新弟子――しかもこれと言って特徴のない人物の写真を撮り、わざわざインタビューまでしたのである。二所ノ関親方の気合に押されたものとしか思えない。

 このときの写真は、のちに不世出の横綱・大鵬にとっても貴重な“思い出の写真”となった。

 納谷はやがて十両になり、不世出の横綱・大鵬となっていった。彼が驚異的なスピードで出世していったのは、もちろん彼の稀なる素質によろうが、親方の何ものかに取りつかれたような厳しい指導があったことは間違いない。

 とてつもない大器を見いだし、徹底的に絞り上げた親方と、師匠の言葉をそのまま自分の血肉とする弟子――この見事な師弟関係を生んだ、常識を遠く超えた大きな力と幸運を、二所ノ関親方は、“天の配剤”と呼んで自覚し、自分を鬼にもしていたのだった。

語り部=吉川 亨(元『内外タイムズ』記者)

月刊『相撲』平成30年4月号掲載 

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