相撲の町両国の名刹・回向院(えこういん)の斜め裏手にあたる所に、私どもの営む『ちゃんこ大内』がある。元大関で引退後は年寄立田山を名乗った大内山ゆかりの店である。昭和59(1984)年自宅を改装し開店した。  

※写真上=手でヒザをことさら持ち上げることなどせず、脚を素直に高々と掲げた、相撲の大基本にのっとった大内山の四股! バランスのよい体に備わった力は本物……
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

優しい気遣いの人 

 現役当時からここに居を定めていたが、父の人柄と、両国橋を渡ってすぐという土地柄もあって、横綱東富士、プロレスラー力道山といった人たちもよく立ち寄ってくださったそうで、そのたびに人だかりがして大変だったと、母(登茂子=87歳)は言う。

 父は一見無口のようだが、それは番付や先輩後輩の序が厳しい力士社会での話。実はかなりの話上手だったと言うと、お客様はもちろん、父の現役時代を知る相撲記者OBの方でもびっくりされる。

 とにかく芯から優しい人で、母がどんなに毒づいてもドーンと受け止めて、一度も怒ったことがなかったという。そして大変な子ども好き。私は父が引退してから生まれたが、現役時代には長い巡業から帰ってくると、近所の子たちが大勢集まってきて、いいとこを売りながらの(冗談交じりの)土産話の面白さに喜んで聞き入っていたそうだ。

 自分の相撲ぶりについては、『オレが思いっ切り突っ張ったら、相手を壊しちゃうからナ』と、思い切って突っ張ることがなかった、というエピソードが今でも活字等に残っている。確かにそれはほんとうだったようで、私が父から聞いたことには、そうなったきっかけは、ある小兵力士との本場所の一番だったという。絶対に自分が勝っていた相撲が物言い取直しとなり、珍しくついカッとなって突っ張ったところ、最初の一発が顔面に命中し、そのまま相手は溜りを通り越し、桝席にまで吹っ飛んでしまった。さいわいそのときは大事に至らなかったものの、父は大いに後悔し、「これからはこの人並外れた大きなオレの手で、相手に大ケガをさせるような相撲は決して取るまい」と心に期したのだとか。

 さらには、そんな気持ちが土俵際などで自分の巨体を相手にのしかからせることを良しとせず(相手にダメージを与えぬよう……張り手、カチ上げ多用の現代力士に聞かせたい話ではある)、いわゆる「かばい手」にとどめるどころか、有利、不利にかかわらず、先に手をついて(黒星!)かばってしまうことすらあったようだ。

 私としてはそんな父の思いや人間的優しさ、矜持を、勝負師としての気持ちの弱さだとは、やはり受け取りたくはない。力士として致命傷になった右足くるぶしのケガさえなければ横綱に……との思いをともにしながらも、大関大内山でよかった、と思うのである。

 そんな父が敢えて心を鬼にして最後に本気で突っ張って出たのが、新大関で迎えた昭和30年夏場所千秋楽の横綱栃錦との大一番だったのだろう。あとひと張りが足らず?名横綱必死の首投げに大きく吹っ飛ばされはしたが、多くの皆様に歴史に残る名勝負と讃えられている。

 そんなもろもろの思い出に象徴的につながるのが、蔵前国技館の支度部屋で四股を踏んでいる、充実時代のこの写真。単なる巨人力士の四股ではないと思う。脚を高く掲げたこの四股に、あふれる力と、大師匠双葉山(時津風理事長)につながる相撲道と心意気を感じるからである。目先の勝負に走らず、相撲人としての生き方を選んだ父を私は誇りに思っている。

語り部=大内 明(元大関大内山長男)

月刊『相撲』平成30年5月号掲載 

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