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2021-02-10

【NFL】評伝:ショッテンハイマー 力のフットボールで弱体立て直しも、レジェンドQBに苦杯

チャージャーズ時代のショッテンハイマーHC。右は、チーフス時代からの教え子、LBエドワーズ=photo by Getty Images

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強いディフェンス、強いラン攻撃、力のフットボール「マーティーボール」で、弱体化したチームを立て直し、NFLに旋風を起こし続けた名将、マーティー・ショッテンハイマーが2月8日、米ノースカロライナ州シャーロットで亡くなった。77歳だった。

ショッテンハイマーは、1943年9月、ペンシルバニア州ピッツバーグ郊外で生まれた。地元の名門ピッツバーグ大学へ進学し、LBとして活躍。1965年に、当時AFLのバッファロー・ビルズに入団、主に控え選手としてプレーした。ボストン・ペイトリオッツに移籍後、1970年のシーズンを最後に現役を引退、コーチの道に進んだ。

「ザ・ドライブ」「ザ・ファンブル」で夢断たれ…ブラウンズ時代

1980年、36歳でにブラウンズのサム・ルティグリアーノヘッドコーチ(HC)の元でディフェンスコーディネーター(DC)となり、1984年には、成績不振で解任されたルティグリアーノの後継として、シーズン途中でブラウンズHCに昇格した。

1986年には、2年目のQBバーニー・コーザーの成長で、12勝4敗でAFCセントラル地区優勝、チャンピオンシップにも進出した。試合最終盤で7点をリードしながら、対戦相手のデンバー・ブロンコスに、98ヤードを進まれ、QBジョン・エルウェイに同点のTDパスを決められた。この「ザ・ドライブ」でモメンタムを失ったブラウンズは、オーバータイムでブロンコスにFGを決められ敗退した。

翌1987年シーズン、ブラウンズは10勝6敗で再び地区優勝、そしてAFCチャンピオンシップに進出した。相手は同じブロンコス、QBエルウェイだった。試合最終盤、31-38で7点差を追うブラウンズは、残り1分余りでゴール前8ヤードまで攻め込み、同点のTDを目前にしていた。しかし、RBアーネスト・バイナーが痛恨のファンブル、ブロンコスにリカバーされてしまう。「ザ・ファンブル」だった。ブロンコスはこのあと故意にセーフティー、33-38で、ブラウンズはまたしても涙を飲んだ。

定冠詞が付くほどの象徴的なプレーで「スーパーボウルへの道」を断たれたショッテンハイマー。この2戦の敗戦は、その後のコーチ人生を暗示していたのかもしれない。

1988年、10勝6敗で地区2位、3年連続二桁勝利で、就任以来4年連続のプレーオフに進んだが、QBウォーレン・ムーンのヒューストン・オイラーズにワイルドカードで敗退、数日後、ブラウンズはショッテンハイマーの退団を発表した。

余談だが、ブラウンズはこの後、現在に至るまで28シーズンで、2年以上連続でプレーオフに出たことも二桁勝利したこともない。今では「不世出の名将」となった、ビル・ベリチックでさえ、ブラウンズHC時代はプレーオフ進出は5シーズンで1回だけ。ショッテンハイマーの手腕がいかに優れていたかがわかる。

第1シードでも勝ち抜けず…チーフス時代

退団したショッテンハイマーをそのままにするNFLではなかった。
4週間後の1月末、チーフスがHCとして招聘。ショッテンハイマーの新たな戦いが始まった。
LBをしのぐ巨体ながら、驚異的なスピードを誇った「ナイジェリアン・ナイトメアー」RBクリスチャン・オコイエを軸にオフェンスを再構築。QBには30代半ばだったプレーアクションパスの名手、スティーブ・ディバーグを起用した。

ディフェンスはルーキーのOLBデリック・トーマス、2年目のDEニール・スミスが台頭、強力なパスラッシュで相手を席巻した。

それまでの10シーズンで勝ち越しは2回、過去2年は連続で11敗という不甲斐ないチームだったチーフスを、ショッテンハイマーは変えた。

1年目の1989年こそ、8勝7敗1分だったが、翌1990年には11勝5敗でプレーオフへ。このシーズンから6年連続でチーフスはプレーオフ進出を果たした。

レギュラーシーズンでは好調だったが、プレーオフでは相変わらず勝負弱さが付きまとった。
1993年には、49ナースからQBジョー・モンタナ、レイダースからRBマーカス・アレンという、「スーパーボウル請負人」を招いた。この年、AFCチャンピオンシップに進出したが、QBジム・ケリーのビルズに敗れてスーパーボウルを逃した。

チーフス時代のショッテンハイマーHC=photo by Getty Images
チーフス時代のショッテンハイマーHC=photo by Getty Images

1995年春、モンタナが突然の引退発表。にもかかわらずモンタナの影武者的存在だったQBスティーブ・ボノの活躍で13勝3敗で地区優勝。レギュラーシーズンのショッテンハイマーは無敵だったが、AFCの第1シードだったこの年も、第6シード、9勝7敗のコルツに敗れてしまった。

1997年には、移籍のQBエルビス・ガーバックの活躍で、13勝3敗でチーフスでは2度目のAFC第1シードに。しかしディビジョナルラウンドで、宿敵ともいうべきQBエルウェイと、若き天才RBテレル・デービスを擁するブロンコスの前に一敗地にまみれた。

1998年、7勝9敗で就任以来初の負け越しとなった後に、チーフスは、ショッテンハイマーと別れる決断をした。負け越しはきっかけにすぎず、ポストシーズンで勝てないことへのフラストレーションが退任の理由なのは明白だった。

合計10シーズンで、レギュラーシーズン101勝58敗1分、地区優勝3回、プレーオフ出場7回だった。

最後に立ちはだかったQBブレイディ…チャージャーズ時代

ショッテンハイマーは、2年のブランクを置いて、ワシントン・レッドスキンズのHCに就任。その翌年2002年には、サンディエゴ・チャージャーズのHCとなった。59歳のショッテンハイマーにとって最後の戦いだった。

RBラダニアン・トムリンソン、QBドリュー・ブリーズという強力な布陣で、就任2年目の2004年に12勝4敗で地区優勝。手腕は健在だった。しかし、プレーオフはワイルドカードでニューヨーク・ジェッツに敗退した。

2006年シーズン、ショッテンハイマーの「マーティーボール」がさく裂した。QBをフィリップ・リバースに交代したチャージャーズは、ラン1815ヤード、28TDのRBトムリンソンを軸に、TEアントニオ・ゲーツらを擁しハイスコアオフェンスを展開した。ディフェンスには17.5サックのDEショーン・メリマン、LBながらパスディフェンスの巧みなLBエドワーズがいた。オフェンス1位、ディフェンス7位で14勝2敗、堂々のAFC第1シードとなった。

満を持して迎えたディビジョナルプレーオフで対戦したのが、QBトム・ブレイディのニューイングランド・ペイトリオッツだった。

第4クオーター、トムリンソンのランTDで8点をリードしながら、試合時間残り4分でブレイディにTDパスを許し、2ポイントコンバージョンも決められた。残り1分でKスティーブン・ゴストコウスキーにフィールドゴールを決められ、またも敗れた。

プレーオフ通算13敗目のこの試合が、ショッテンハイマーのNFLのHCとして最後の試合となった。

スーパーボウル最有力とみられながらの終盤での逆転負けに、チャージャーズのGMだったA.J.スミスとの関係は断裂し、2007年2月、ショッテンハイマーは解雇された。

部下からはカウワー、マッカーシ―ら16人のHCを輩出

21年間の成績は、レギュラーシーズン200勝126敗1分、地区優勝8回、10勝以上11回、プレーオフ出場13回、第1シード4回。ポストシーズンは5勝13敗。カンファレンスチャンピオンシップは0勝3敗。あまりに対照的だった。

4回に及んだヘッドコーチ退任劇で、当該シーズンの成績は10勝6敗、7勝9敗、8勝8敗、14勝2敗だったのも極めて異例だ。

特に、ポストシーズンではレジェンド級のQBに苦杯を喫し続けた。最初に敗れたのが、ダン・マリーノ、その後2年連続でジョン・エルウェイ、ウォーレン・ムーン、ジム・ケリーにも敗れた。最後には、「GOAT」トム・ブレイディが立ちはだかった。

ショッテンハイマーの偉大さは、配下として働いたコーチの顔ぶれで分かった。彼の部下でNFLのHC経験者は16人に上る。人脈の幅広さ、そしてコーチとしての力量を見抜く力は超一流だった。

ビル・カウワー(元スティーラーズHC)、マイク・マッカーシー(元パッカーズ、現カウボーイズHC)、ブルース・エイリアンズ(元カーディナルズ、現バッカニアーズHC)は、NFLでのコーチキャリアをショッテンハイマーの下で始めた。3人とも、師が達成できなかったスーパーボウル優勝を成し遂げた。

ハーマン・エドワーズ(元ジェッツHC)は、能力を見込まれて、スカウトからコーチに転身、成功した。

トニー・ダンジー(元バッカニアーズ、元コルツHC)、アート・シェル(元レイダースHC)は、不遇の時代にショッテンハイマーの元でポジションコーチとして遇され、力を蓄えた。

通算200勝だが、スーパーボウルには届かなかったショッテンハイマーHC=photo by Getty Images
通算200勝だが、スーパーボウルには届かなかったショッテンハイマーHC=photo by Getty Images

欠けていたのは、スーパーボウル出場そして勝利だけだった。

今回のスーパーボウル直前に、健康状態の悪化と、ホスピスへの入院が伝えられた。そしてスーパーボウルの翌日に永眠した。コーチとして最も長く指揮したチーフスが、大一番を戦い終えるまで、気力で生き永らえたような気がした。最後まで、「マーティーボール」で戦い抜いた人生だった。

【小座野容斉】

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