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2021-07-14

7月14日はマサ斎藤さんの命日 “獄門鬼”伝説【週刊プロレス】

マサ斎藤さん

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 2018年7月14日、日米をまたにかけて活躍した元プロレスラー・マサ斎藤(本名・斎藤昌典)さんが死去。享年75だった。

 マサさんは1942年8月7日、東京都中野区出身。1964年の東京オリンピックにレスリング日本代表として出場し、1965年に日本プロレス入り。6月3日の高崎山猿吉戦でデビューした。

 1966年にはアントニオ猪木が旗揚げした東京プロレスに移籍。マサさんが社長を務めた時期もあったが、団体崩壊の憂き目に遭ってしまう。

 その後、渡米。NWA、WWF、AWAなど各テリトリーでトップヒールとして活躍。1972年には5年ぶりに日本凱旋。1974年には新日本プロレスに参戦し、1983年、長州力の呼びかけに応じて革命軍(のちの維新軍)に合流。ジャパン・プロレスの一員として全日本プロレス参戦も果たし、ジャンボ鶴田、天龍源一郎らとの対戦も実現している。

 1984年4月、アメリカにてケン・パテラが起こした器物破損事件に巻き込まれる形で、警察官に暴行。有罪判決を受けてしまう。1年半の刑務所暮らしを余儀なくされてしまったが、1986年12月、アメリカでリング復帰を果たした。

 1987年3月に日本マット界復帰。10月4日には猪木と巌流島で無観客マッチもおこない、2時間5分14秒の死闘の末に敗れたが、いまだに伝説の一戦としてファンの語り草となっている。

 その後はたけしプロレス軍団の参謀役や外国人選手の発掘&育成など脇役的な立ち位置となるが、1990年2・10東京ドームではAWA世界ヘビー王者ラリー・ズビスコを破り、日本で初のシングル王座戴冠を果たした。

 1999年2月14日の引退後はパーキンソン病と闘病しながら、2005年に設立された佐々木健介率いる健介オフィス(DIAMOND RING)でスーパーバイザーを務めた。中嶋勝彦、宮原健斗、マサ北宮らを育成した。

 2016年12月2日の上井プロデュース興行にて久々にリングに登場し、2017年4月7日の同興行でもリングに上がり、DIAMOND RING時代のまな弟子・マサ北宮にエールを送っていた。

 2018年7月14日午前1時5分、闘病を支え続けた倫子夫人、“息子”のような存在だった健介らに看取られて、この世を去った。21日に通夜、22日に告別式が東京・港区の梅窓院で営まれた。倫子夫人、健介、長州力、坂口征二、天龍、前田日明、蝶野正洋らが参列。告別式ではグレート・カブキ、武藤敬司が弔辞を読んだ。

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