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2021-07-17

7月17日はブルーザー・ブロディの命日 新日本プロレス&全日本プロレスで大暴れ【週刊プロレス】

ブルーザー・ブロディ

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 1988年7月17日(現地時間)、ブルーザー・ブロディが死亡した。42歳だった。

 ブロディは前日の16日、プエルトリコのバイヤモン・スタジアムにおけるWWCの興行中、ドレッシングルームで現役レスラー兼ブッカーであるホセ・ゴンザレス(ジ・インベーダー1号として来日)によって、ナイフで腹部を刺された。翌17日、手術中に出血多量で死亡。21日には葬儀がしめやかにおこなわれ、遺体は荼毘に付された。

 1946年6月18日、ペンシルベニア州ピッツバーグで生まれたブロディはNFLのワシントン・レッドスキンズと契約したが、ヒザの故障で2シーズン目に解雇。1973年にプロレス転向を決意した。

 デビュー当時のリングネームはフランク“ザ・ハマー”グディッシュ。1976年7月、ビンス・マクマホン・シニアからブルーザー・ブロディという新しいリングネームをプレゼントされ、WWWFに参戦。9月4日、10月4日にマジソン・スクウェア・ガーデン定期戦でブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に2カ月連続で挑戦した。

 1979年1月に全日本プロレスに初来日。タッグマッチながらいきなりジャイアント馬場からピンフォール勝ちを奪う。1981年10月にドリー・ファンクJrを破って、インター・ヘビー級王座を獲得。12月にはジミー・スヌーカとのコンビで「世界最強タッグ決定リーグ戦」を制覇。翌年からスタン・ハンセンとの“超獣コンビ”として全日本マットを席巻していく。

 1985年3月21日には新日本プロレスに電撃移籍。アントニオ猪木と7度にわたる一騎打ちを繰り広げた一方、2度のボイコット事件でトラブルメーカーぶりを満天下に示す。

 1987年10月には全日本プロレスに復帰。ハンセンとの“超獣対決”も実現し、タイトル戦線で活躍。最後の来日となった1988年4月19日にはインター選手権でジャンボ鶴田のバックドロップによって7年ぶりのピンフォール負け。3カ月後に刺殺事件が起こり、このシリーズを最後にブロディが日本の土を踏むことはなかった。

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