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2021-08-27

【連載 名力士ライバル列伝】旭富士 小錦 霧島の言葉「心を燃やした好敵手たち」・大関小錦前編

前相撲からケタ外れのパワーを披露し、所要8場所で新十両を果たした小錦

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昭和から平成へ、時代のターニングポイントにおいて、
土俵を沸かせた名力士たち。
元旭富士の伊勢ケ濱親方、小錦八十吉氏、
元霧島の陸奥親方の言葉の言葉とともに、
それぞれの名勝負、生き様を回顧したい。
※平成28~30年発行『名力士風雲録』連載「ライバル列伝」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

「転換点」を乗り越えて、追い求めた相撲の奥深さ

PUSH! PUSH!

丸太のように太い腕が、右、左、右、左と、胸板や顔面に容赦なくヒット。百戦錬磨の幕内の猛者たちが吹っ飛ばされる。横綱隆の里、大関若嶋津、横綱千代の富士も餌食になった。

蔵前国技館最後の昭和59(1984)年秋場所、入幕2場所目で規格外の強さを見せる小錦の姿は、まさに“黒船旋風”。ところが、無敵の強さとは対照的に、本人の心は、夢を見ているみたいだったという。

「一人でハワイから来てさびしくて、こんなに早く出世できるなんて思ってなかったから。ずっと勝ってるのに、頭と体がバラバラで、自分が相撲を取っていない感じ」

同じハワイ出身の高見山に誘われ、昭和57年6月、18歳の時に来日して高見山と同じ高砂部屋に入門。184センチ、175キロの体は群を抜き、大型新弟子と注目された。明治時代の横綱「小錦八十吉」の四股名をいきなり継いだのも、期待の表れだった。

その期待に違わず、わずか2年で昭和59年名古屋場所に20歳で新入幕。その2場所目に、冒頭の旋風が吹き荒れたのだ。このまま優勝と思われたが、千秋楽に琴風に敗れ12勝3敗。しかし、それが良かったと小錦は振り返る。

「優勝できなくて悔しくて、『これが相撲だ』と思った。相撲の難しさを知ったからこそ、『これからが相撲の本当のチャレンジだ』と思ったんだよ」

吹き荒れた旋風も、翌場所は止まった。最初は巨体に圧倒された先輩力士も、対策を練ってきたのだ。ケガによる途中休場や負け越しも経験。もがき苦しむ中、発奮材料となったのが北尾(のち横綱双羽黒)だった。同じ昭和38年生まれのライバルに先に大関に昇進され、悔しさを胸に稽古に励んだ。しかし、昭和61年夏場所8日目、その北尾との一番で、大きな試練が訪れる。

土俵際、上手投げに倒れながら押し出したが、判定は同体。気持ちの整理がつかないまま臨んだ取り直しの一番で、鯖折りを食らって右ヒザから土俵に激しく落ちた。苦痛に顔が歪む。翌日から休場し、翌名古屋場所は公傷全休。小錦は荒れた。

「ケガより、取り直しになったことが悔しかった。絶対勝っていたと思ったから」

しかし、家族や友人、ファンからの温かい励ましを受け、前を向くことができた。

「あのケガが、自分のターニングポイントだったね。苦しさを味わったことで、人の気持ちも考えるようになったし、大人になったと思う。我慢と辛抱を覚えたよ」

再起の土俵に上がった秋場所、東4枚目で12勝。九州場所で関脇に復帰してからも二ケタ白星を続け、いよいよ念願の大関の座に迫った。そんな中、小錦は相撲の奥深さを楽しむようにもなった。

「研究する。そして作戦を考える。それが本番でうまくいって勝つのは、よく勉強してテストでいい点を取ったような気分だ」

手本は千代の富士だった。黒船旋風の場所、千代の富士は小錦にウルフの獰猛さの片鱗すら見せられず、子犬のように吹き飛ばされた。ところが、翌場所の対戦ではすぐに雪辱。そこから小錦戦8連勝と圧倒した。その裏には、貪欲な研究心があった。小錦のいる高砂部屋に出稽古を重ね、手繰って回り込むコツを身に付けたのだ。

小錦は、敗戦の悔しさを味わいながら、横綱の研究熱心さから学び、自らも対策を練った。突き放すだけでなくつかまえて寄る相撲も身につけた。それが実って、8連敗の後、62年初場所から千代の富士に3連勝。これが大きな力になり、夏場所後に、外国人として史上初の大関に昇進する。(続く)

『名力士風雲録』第19号旭富士 小錦 霧島掲載

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