藤岡奈穂子(46歳=竹原慎二&畑山隆則)と天海ツナミ(37歳=山木)。女子ボクサーにとって“開かずの間”だった本場アメリカ進出を果たしたふたりに、WBOミニマム級チャンピオン多田悦子(40歳=真正)も続かんとする。だから、彼女にとって8月11日の無冠戦は、ほんの肩慣らしのつもりだったかもしれない。けれども、その試合に自身の新たな道を見い出そうと、すべてを懸けたのが葉月さな(37歳=YuKOフィットネス)だ。今年1月、敵地コスタリカへ赴き、IBF王者ヨカスタ・バジェに挑戦し大差判定負け。多田との一戦は、それからの復帰戦。前日になって急遽、試合からスパーリングへ変更されたが、葉月にとっては何ひとつ変わらなかった──。“レジェンド”を相手に敢然と挑んだ葉月さな、彼女の壮絶な半生と芯の強さを追う。
文_西村華江
写真_西村華江(インタビュー)、松村真行(多田戦)
両者の表情は、あまりにも対照的だった。憮然とした表情の腫れひとつないきれいな顔の多田。鼻血を流しながらも、満面に笑みを浮かべる清々しい葉月。勝敗のつかないスパーリングだが、どちらも勝者とコールしたくなる見応えがあふれていた。
10オンスグローブ使用のスパーリングとはいえ、ヘッドギアなしと試合さながら。葉月の右が多田を捉える 多田は、日本女子ボクシングの草創期から先頭に立ち、今なお、世界王者として活躍する“レジェンド”。葉月は、そんな敬愛すべき存在を相手に、臆するどころか堂々と立ち向かっていった。ラウンドを重ねるごとにテンポアップし、動き続けた運動量は驚異的。それ以上に、何がなんでも食らいついていこうとする気迫が、なんとも凄まじかった。その戦う姿には、観る者を無条件に惹きつける何かがある。なによりも彼女自身が、これまでで一番、ボクシングを心から楽しんでいるように見えてならなかった。
当初こそ、華麗なステップを見せていた多田だが、葉月の“本気”を察知して、自身も本気になった 左ジャブを軸に、出入りと上下の動きを駆使しながら、グイグイと前進。チャンスと見るや懐に迫って5発6発と連打を放ち、多田のカウンターを誘っていく。相打ちを狙う作戦だ。
だが、そこはさすがレジェンド。まともには浴びない。けれども、葉月はすぐさま体勢を立て直し、速くてしつこい攻めを繰り出し続けた。相手のリズムと間を潰す攻撃を次々と仕掛けたことで、多田を慌てさせ、本気にさせてみせたのだ。
最終ラウンド、ギアを上げた多田は、いまなお進化を遂げている強烈な左カウンターを真正面からまともに浴びせて、葉月に鼻血を流させた。それでもなお、葉月は最後の瞬間まで倒しにかかる姿勢を崩さなかった。まさに体当たりの、勇気ある進撃。そんな“芯の強さ”をまざまざと感じさせられた。
息子に背中を見せたかった
2014年、ジムに入門した当初の葉月と小学6年生の玲志くん ※本人提供 デビューは2014年11月1日。当時30歳だった葉月は“パートシンママ”。いわゆる、パートで生計を立てながら子どもを育てる、シングルマザー。ボクシングに興味を持った小学5年生のひとり息子・玲志くんが、ある日「オリンピックに出る」と言ってきたことがきっかけとなり、2013年12月に現在のジムの門を叩いた。
すると、後のWBC女子世界ミニマム級王者・黒木優子(当時18歳=YuKOフィットネス)が目に飛び込んできた。汗をほとばしらせて練習に励むその姿は圧倒的で、一瞬にして心を奪われた。
「私も世界をめざそう!」の言葉が、口をついて出ていた。一緒にボクシングをすることで、初めて習い事をやり始めた息子を、引っ張れたらいいなと思った。
「プロになって、私も本気で“世界”をめざすから、あんたも頑張って」と語りかけ、 “体当たりの教育”をする覚悟を決める。
「ボクシングは『人生のキツさ』とリンクする。相手から殴られるという、明白な“恐怖と痛み”。何よりリングに立つまでのプロセス。分かりやすい誘惑も多い。減量中であれば、甘いものを食べたい。朝練があるのに、布団から出たくない。何気ない日常こそが問われる。いかに自分を律していくか。すべてにおいて、学ぶことが多いんです。そして、子どもにとっても分かりやすい。“説教ではなく行動する”ことが教育でもある。できることって何もないから、息子に背中を見せていくことで感じとってほしい」と、丁寧に言葉を紡いでいく。
「私自身、道を外したこともありました。親に育てられたことがないので、教育のお手本がない。だから、息子の育て方が分からない。親としてどうなんだろう?と反省する部分があって……」。
だからこそ、ボクシングを続けることで、息子の母親でいられる。プロボクサーである母として、存在価値を高められる。ボクサーであることが、彼女自身の支えでもあるのだ。
弟の死 そしてもう一つ、ボクシングを続けたい理由があった。長弟・竜弥さんの自死である。
「私たちは何度も母に捨てられたんです」と、訥々と語り始めた。小学1年のある日、朝、目覚めたら母がいなくなっていた。駆け落ちをして、行方をくらましたのだ。父・健吾さんがくる日もくる日も懸命に探しまわったが、当時6、4、3歳とまだ幼い姉弟が、母の胸に再び抱きつくことは叶わなかった。
幼な子は、母を求める本能には抗えない。寂しさと悲しさと不安のあまり、子どもだけで母を探しに出かけた。思いつく限りの場所を歩き回った。辺りが真っ暗になっているのさえ気づかないほど必死に──。
捜索願が出され、警察沙汰になったこの出来事がきっかけで、2人の弟とともに児童養護施設へ預けられることになった。父は朝早くから遅くまで建設現場で働き詰めの日々。涙を飲んで、長女・さなえ(本名)に弟2人を託したのだ。自覚がないまでも、自ずと彼女は3きょうだいの長として強くならざるを得なかった。
中学卒業と同時に施設を出る日までの9年間、年2回だけ、大阪に住む父と一緒に過ごす時間が与えられた。それは3人にとってかけがえのない時間だった。でも、母への想いは断ち切れない。施設にいるときに、テレビで感動再会の特番を食い入るように見ながら、母と会える日に想いを馳せていた。
その想いは、彼女が社会人になってついに実現する。緊張を抱えながらも胸躍らせ、母に会いに向かったが、それは感動とはかけ離れていた。あまりにもあっさりと対応する母を前に、違和感しか残らなかった。
その後、新たな命を授かり17歳で出産。だが、3ヵ月で結婚生活にピリオドを打ち、ひとりで子育てをする道を選んだ。母方の祖母の家に身を寄せ、新しい家族とともに東京から福岡に戻ってきた母との同居生活も始まった。ともに過ごした約3年の間に、自分が母となって気づいたこと、これまでの想いをぶつけることがあったという。自分たちの気持ちを分かってほしかったし、歩み寄りたかった。竜弥さんも同じだった。しかし、母とは相容れず、2人の想いを受け入れるどころか、すべてをはぐらかした。
「母が、私たちをまた捨てたんです」。彼女はことさら語気を強めた。
ほどなくして、家族はまたバラバラになり、失望を抱えながらも、2人の弟と支え合いながらなんとか懸命に生きてきた。しかし、長弟の落胆と絶望は大きく、自身では抱えきれない状況まで陥っていた。父が手を差しのべて、彼を大阪に呼び、一緒に暮らした。だが……。
今から9年ほど前に、悲劇は起きた。
母は、泣いた。しかし、泣く声を聞けば聞くほど、表現し難い虚しさと怒りしか込み上げてこない。そのとき以来、贖罪や反省のない母の存在を、一切消し去った。
ボクシングじゃないと意味がない
辛く、壮絶な過去を、彼女はしっかりと振り返る。乗り越えた強さを痛切に感じさせる ※3月撮影「俺の人生、無意味だった」と自分を否定し、生涯を終えてしまった彼の影を常に感じる日々。何もしてあげられなかった無念さと後悔に苛まれ、自分を責めることしかできない。抗おうとしても、抜け出せない喪失感をどうやって克服したらよいか分からないでいた。
「苦労と悲しみを共にしてきた、大切な唯一無二の弟を守れなかった。そんな私が、この先どうやって息子を守っていけるのだろう。それでも、この子を守りたい」。そんな葛藤を抱える彼女の心を捉えたのが、ボクシングだった。
「スポーツとは縁のない生活でした。自分からとてもかけ離れていて、部活動や習い事をやるという、普通のことができない人生を歩んできた。これをやることは天地がひっくり返るほど驚くことだし、絶対に無理だって周りが思う世界。それくらいのことをしないと、人の心は動かせない。だからこそ、挑戦する意味があった」
人を助けられる範囲は限られている。手を差しのべたり、励ましの言葉をかけたりすることは誰にだってできる。でも、それを心や魂に訴えることが、どれだけ難しいかを身をもって知る彼女にとって、施しや言葉、理屈ではなく、自身が体現することが必要だった。
「ボクシングじゃないと意味がない」
キッパリ答えるその眼差しには、経験した者にしか宿らない力強さがある。
だからこそ掲げた「世界戦の舞台に立つ」という目標。何がなんでも到達して、長弟にこの想いを伝えたい。
「お前がいたから、誰もが憧れるこの場所に、栄光の場所に立っているんだぞ!無意味ではないんだぞ!」と──。
山口県岩国市のリングで、2-1ながら判定でOPBF王座を奪取 写真_BBM 心情を表すかのごとく、旺盛な手数でアグレッシブに前進する好戦的なファイター。対戦オファーはすべて受け、「逃げない姿」を息子に見せ続けてきた。
後のタイトルホルダーとなる格上の選手たちと拳を合わせ、苦杯を舐めながらも力をつけていく。2019年11月、3度目のタイトルマッチ挑戦で、廣本江瑠香(広島三栄)に挑み、OPBF女子ミニマム級のベルトを獲得してみせた。
「やってきたことは間違いじゃなかった。“できる人”と“できない人”の区別ではなく、“やる人”と“やらない人”の違いであることが分かった。ベルトという、形あるものを手にしたことは嬉しい」と安堵の表情を見せる。
境界線を「越える!」 彼女はボクシングをする傍ら、慈善活動にも意欲的で、福岡市にある和白青松園に足を運んでいる。“平成のKOキング”こと、元日本・OPBFライト級チャンピオン坂本博之さん(SRSジム会長)が行なっている、児童養護施設の子どもたちへの支援活動『ボクシングセッション』に参加しているのだ。
自身も含め養護施設で育つ子どもたちは、自ら“境界線”を作り、夢や目標を作ることさえできずにいるという。
「自分が道を決めて、苦しくてもやり続けることで、境界線は越えられる。新たな人生を作れる。不可能はない」と自身の経験を話して、ベルトを実際に持ってもらうことで、何かを感じてもらいたい。そして、一歩を踏み出してほしいと心から願っている。
「なおさら、目指すべき“世界”へ向けて頑張らなきゃ、ですね」と、希望に満ち溢れていた。
だが、新型コロナウイルス感染症の流行で事態は暗転する。昨年12月にようやく決まった初防戦が、延期となった。ボクサーとしての人生は、このまま終えざるをえないのかもしれない──。
そんな中、年末にIBF女子世界同級王座挑戦という“千載一遇のチャンス”が舞い込んでくる。亡き弟が生きた証を作るために、ずっと目指してきた舞台。
「コロナだからこそ来た話。これを逃したら絶対にない」。即座に心は決まった。
出国の許可が下りるのか、敵地へトラブルなく辿り着けるかも分からない。コロナ禍での海外渡航に対する批判の声も厳しかった。それでも所属ジムは、彼女の想いを汲み、リスクを背負ってでも送り出す決断をする。
「目標が“世界挑戦”。けれども、絶対にベルトを獲らないと、帰れない」と、悲壮な覚悟を胸に臨んだが、技術、対応力の差をまざまざと見せつけられる敗戦となった。
愛息の“船出”。そして母もまた、新たな一歩を踏み出した
19歳になった玲志くんも取材に同席してもらった。それぞれが、たくましく自分の道を歩む。素敵な母子だ ※3月撮影 帰国後、長弟・竜弥さんの最期の場所に向かい、長年抱いてきた想いのすべてを伝えた。そして「“自分の想いを果たす”道のりを完走しました」と静かに語った。
「今は、玲志が頑張っているから、私も負けられないなって気持ちで、ボクシングをしています」。それは、“体当たりの教育”を卒業したことを意味していた。
「何かをしてあげることが、すべて正しいわけじゃない。手を差しのべるより、自分が挫折しそうになっても、負けずに進んでいく姿を見てほしい。背中を見せ続けることで、息子の指針になりたいと思う一心で走ってきたんです」。逞しく生き抜く人間になるためには、“自立心”が必要だと考えたからだ。
でも、思春期を迎えた息子と衝突する度に、「ボクシングを大義名分にして、逃げてないか。もっと寄り添ってあげればよかったんじゃないか」と、何が正しいのか惑う時期もあった。中学2年までボクシングをがんばった息子は、卒業の後、社会人として働き始めたが、職を転々とする。見兼ねた母は、
「崖の上で戦っている姿を見せるしかない私にできることは、この子を崖から落とすことしかできない」と、遠洋漁業の仕事を見つけ、我が子を海の上へ送りこんだ。
「いつ音を上げて戻ってくるかなって内心ヒヤヒヤでした」と当時を振り返る。
けれども、親の心配をよそに、月の半分以上は海で過ごす漁師の仕事を、彼は1年間やり遂げた。現在は、船上作業者としてタンカー船乗組員となって、この4月に巨大船に乗り込み、約7ヵ月にも及ぶ船上生活を送っている。
今年3月、世界戦を終えた彼女を取材した際、玲志くんにも同席してもらった。そのとき「自慢のお母さんですね」と話しかけると、
「有言実行しているところを、普通に尊敬している。すげぇって思うけど、母は母。自分は自分です」。自立した大人になろうとしているからこその、等身大の素直で真っすぐな応えだった。2ヵ月後、彼は自分の意思で、自ら選んだ新たな仕事に就いた。来春、成人式を迎える彼は、しっかりと自分の足で歩み始めている。
「本当にボクシングで人生変わりました」。
感慨深げに語る葉月の声は、弾んでいた。どんなに心が折れそうになっても、目標に向かって前進し続け、自ら作っていた“境界線”を超えた達成感があるからだろう。そこには、もがき苦しみながらも生きる意味と喜びを見いだし、新たな人生を切り開いてきた逞しさがある。
そして、晴れ晴れしい表情で言葉を続ける。
「決めたゴールに向けて、何がなんでもという気持ちで自分のために走ってきた。でも、これからは、応援してくれる人や支えてくれている方々に報いるような、巡り巡って誰かの力になれるような戦いをしていきたい」。
いちプロボクサーとして、新たな一歩を踏み出した。
「気負いなく、今は純粋にボクシングを楽しめている」という葉月は、今回の多田との戦いに向けて、入念なリサーチと対策をしていた。公式戦にはならなかったが、「得たものが大きい。次に生かせます」と、実に意欲的だ。
朝7時半から2時間弱のボクシング練習をし、午後はフィットネスジムでボクシングのインストラクターとして勤務。夕方6時からの3時間は、日によってメニューを変える。走り込み、水泳、山道や階段のフィジカル系トレーニングに取り組む。
「走りながら、今使っている筋肉は、ボクシングではどんな動きに役立つのか。ジムでは、この動きを完璧にするには、どの部分を鍛えるべきか。気がつけば、いつも考えています」
ボクシングに直結させるためのフィジカル強化の度合い。強打を打つ際の初動、インパクトの瞬間、打ち終わり時のそれぞれの筋肉の使い方。体を回転するときの身体の連動のさせ方など、次々と言葉が溢れ出てくる。そこには、どこか張りつめた雰囲気を纏った、かつての姿はなかった。
アスリートとして覚醒した彼女が、この先どんな進化を遂げていくのか。再びリングで躍動する姿が楽しみでならない。