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2021-10-27

藤波辰爾が語る新日本プロレス旗揚げ<2>「ライオンマークは円を描くのに丼を逆さにして縁をなぞって、山本小鉄さんが描いた」【週刊プロレス】

1972年3月、新日本プロレス合宿

 いよいよ新日本プロレスが動き出す。これで日本プロレス、国際プロレスとの3団体時代に突入したわけだが、当時はほかの2団体に比べると吹けば飛ぶような規模でしかなかく、決して順風満帆の船出ではなかった。
 旗揚げ戦のことはいろいろと語られてきたが、その日に至るまではどのように過ごしてきたのか? 旗揚げまでの藤波辰爾の周辺を語ってもらった。

 年が明けた1972年1月13日に正式に新日本プロレスを設立、3月6日に大田区体育館で旗揚げ戦をおこなった。日本プロレス追放から旗揚げ戦までの3カ月間をどのように過ごしてきたのか?

「当時、猪木さんは28歳。小鉄さんも若いし、木戸さんはもっと若い。僕はまだ17歳、18歳ですよ。右も左もわからない。デビューして間もない頃で。猪木さんが身の回りで起きたことすべて乗り越えた形で日本プロレスを離れたわけだから、自分は自分で猪木さんの世話をするべきだろうなっていう思いがありましたね。新団体の戦力の一つ、選手として駒の一つになれるっていう考えはなかった。周りもそう思ってなかったでしょうね。デビュー間もない僕なんて重要視されてなかったっていうか」

 そして旗揚げに向けて動き出す。

「最初、新日本プロレスは選手6人。猪木さん、小鉄さん、木戸さん、北沢(幹之)さん、柴田(勝久)さん、そして僕。あとレフェリーのユセフ・トルコさん。それにスタッフが3人ぐらいかな。本当に全部で10人いないぐらい。その中での旗揚げですからね。

 昼間は練習の傍ら、まだ道場ができる前は多摩川の河原でランニングとか練習して、夜はポスターを電柱に貼ったりしながら営業に回るわけですよ。いろんなところに飛び込みで。今、飛び込み営業ってあるのかな? 当時は支援してくれる人もいないし、新日本プロレスを買ってくれる興行師もいないし。日本プロレスが有力な興行師を押さえてたから。

 猪木さんの方は、今のインディーといっしょ。すべて自分たちでやってた。宣伝カーで街中を回るんだけど、その声を倍賞美津子さんのお姉さんである倍賞千恵子さんが吹き込んで。ほんとに身内でやってましたよ。

 日本プロレスからの妨害? 嫌がらせをするほどでもなかったんでしょう。まだ道場もできてないし。猪木さんは多摩川の近くに自宅があってね。庭には松の木が植えてあって、池にはコイが泳いでたんですよ。

 そんな素晴らしい庭を一夜にして更地にしてね。そこに道場を建てたわけだけど、昼間は石ころを拾いながら鉄骨を運んだりして。それが練習がわり。夜はチケットを売りながら。その中で小鉄さんと新日本のシンボルマークを考えてね」

 あのライオンマークは山本小鉄と藤波辰爾の情熱の結晶とも言えるものだった。

「シンボルマークを何にしようかって。で、あれこれデザインを考えるんだけどコンパスがなくてね。円を描くのにキッチンから丼を持ってきて、それを逆さにして縁をなぞってね。それでライオンマークを描きましたよ。でも、絵はうまくなくて(笑)。小鉄さんが描いたんだけど、『これ、虎ですか? ライオンですか?』って。

 最終的にライオンになったわけだが、その決め手は?

「日本プロレスのシンボルマークが王冠だった。そこで強いものの象徴がいいんじゃないかっていう意見になって。じゃあ百獣の王、ライオンにしようって。そして王はKINGだから、スポーツの王様“KING OF SPORTS”にしよう。そこに“NEW JAPAN PRO-WRSETLING”の文字を入れようって。でも最初、スペルがわからなくて。“W”始まると思ってなかった(笑)」

(つづく)

橋爪哲也

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