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2021-12-08

「カナダに到着した時に持っていたのは6ドルだけだった」タイガー・ジェット・シンが語った“狂虎の深層”<1>

サーベルをくわえるタイガー・ジェット・シン

 いまでこそ「ヒール」という言葉は一般にも浸透しているが、日本プロレス史においてタイガー・ジェット・シンほどのヒールは後にも先にも存在しない。ファンだけでなくマスコミの目が届くところでは徹底して悪役を貫き、全盛時には日本人すべてが彼に恐怖を抱き、憎んだといってもいいほどの大暴れを繰り広げた。

 “新宿伊勢丹事件”をはじめとする事件の裏側や彼の人となりに関しては多くのメディアで取り上げられてきたが、本人の口から真相が語られたことはほとんどない。そんなシンの貴重なインタビューを週刊プロレスのバックナンバーから発掘。“狂虎の真実”とは――。※週刊プロレス2011年3月9日号(No.1567)掲載。


――まず、あなたの生まれ育った環境を聞かせてください。どんな家族構成でしたか?

シン 兄弟は6人。一番上に姉がいて、その下に4人の兄弟。一番下は妹だ。私は4番目の子供で、三男になる。

――インドは貧富の差が激しいと聞きますが、あなたの家庭は?

シン 父が会社を経営していたし、貧しいことはなかった。そのままインドにいてもいい暮らしができていただろう。

――幼少期はどんな子供でした?

シン 勉強もしたし、スポーツもした。レスリングは子供のころからしていた。だけどマットの上じゃなく、マッド(泥)の中でのレスリングだった。とにかくチャレンジすることが好きだったから、レスリングのほかにもサッカーやグラスホッケー、ハンティングなど、ほとんどが外でするスポーツだった。レスリングも屋外でしていた。

――インドでプロレスラーとしてデビューしたんですか?

シン ノー。プロレスラーになったのはカナダに来てからだ。

――カナダに移住したのはなぜ?

シン 国外でチャレンジしたかったというのが一番の理由だ。しかしアジアのほかの国はまだ発展してなかったし、アメリカはすでに多くの人が成功のチャンスをつかみに行っていた。カナダはアメリカと比べると若い国で、チャンスが残っていると思ったからだ。

――なるほど。ちなみにカナダに渡ったのはいつですか?

シン 1965年。カナダに到着した時、私のポケットには6ドルしかなかった。

――6ドル! 一日を過ごすにも困る金額ですよ!

シン だからすぐに稼ぐ必要があった。その後、フレッド・アトキンスのコーチを受けるようになったんだが、アトキンスの練習は厳しかった。スクワット何千回、プッシュアップ何百回……それを毎日続ける。私はアトキンスに5年間師事したが、これほど長く続いたレスラーはいなかったんじゃないか? ほとんどのレスラーは彼のもとを飛び出した。ジャイアント・ババもアトキンスのコーチを受けたと聞いたが、5年もいっしょに練習したわけじゃないだろ?
(つづく)

橋爪哲也

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