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2022-01-26

“世界の荒鷲”坂口征二とともに歩んだ新春黄金シリーズ…新日本プロレス歴史街道50年<3>【週刊プロレス】

坂口征二vsジョニー・パワーズ

 50周年記念イヤーで新日本プロレスは往年のシリーズ名を復活させることを発表した。その第1弾として正月シリーズに冠されたのが『新春黄金シリーズ』。昭和の新日ファンにとっては懐かしい響き。今後、『ビッグファイト・シリーズ』や『闘魂シリーズ』『サマーファイト・シリーズ』『ブラディファイト・シリーズ』なども復活するのか楽しみなところ。さて、過去の『新春黄金シリーズ』ではどんな出来事が刻まれているのか振り返ってみよう。

 昭和のプロレスでは3~5週間の興行日程を組み、2~4週間のオフを挟んで全国を巡業するスタイルだった。それぞれのシリーズに名前を付け、外国人選手が入れ替わって参戦。

『ワールドプロレスリング』TV生中継に合わせて金曜が開幕戦。最終日は木曜のビッグマッチで、翌日に録画中継されるというスケジュール。今でこそ各団体とも集客を考えて週末や祝日にビッグマッチが開催されるが、当時はあくまでTVスケジュールに沿ったもの。ウイークデーに蔵前国技館や大阪府立体育会館といった大会場を満員にするほどプロレス人気は高かった。

 旗揚げ1年に満たない1973年は『新春バッファローシリーズ』で幕開け。ちなみに同シリーズでは1月21日に昼夜興行を開催している。それも同一会場ではなく、昼=稲築山野鉱業グラウンド、夜=二日市中央公民館裏広場。いずれも福岡県内だが25kmほど離れている。しかも真冬のオープン大会。このあたりに旗揚げ当初の苦しさが見える。


『新春黄金シリーズ』の名が初使用されたのは翌1974年から。途中、UWF勢が逆上陸してきた1986、1987両年を除いて1990年まで年頭シリーズで使用されてきた。

 初使用の前年1973年3月に坂口征二が日本プロレスを離脱して合流。引退したのが1990年3月だから“荒鷲”の新日プロでの歩みとリンクする。そう考えると漢字表記のシリーズ名もしっくりくるも、坂口がシリーズの主役に躍り出ることはほとんどなかった。看板王座はアントニオ猪木が堅持。王座から転落しても坂口が奪回に乗り出すこともなく、あくまでNo.2として新日プロを支えてきたからだ。

 坂口が新日本マットで初のシングル王座を獲得したのも『新春黄金シリーズ』だった。1979年1月26日、岡山でジョニー・パワーズを破ってNWF版の北米ヘビー級のベルトを腰に巻き、当時、長州力と保持していた北米タッグとあわせて2冠王にもなった。しかし同王座は同年9月21日、宮城県スポーツセンターでタイガー・ジェット・シンに明け渡している。
(つづく)


橋爪哲也

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