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2022-02-20

藤波辰巳vs木村健吾史上初のワンマッチ興行で若手時代から続くライバル闘争の集大成…新日本プロレス歴史街道50年(16)

藤波辰巳vs木村健吾

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 藤波辰爾ほど日本人レスラーから狙われたトップレスラーはいないのではないか。他団体からは剛竜馬、阿修羅・原、ヘビー級に転向してからは長州力。Uターン参戦してきた前田日明、凱旋マッチの相手をした武藤敬司、WARを旗揚げした天龍源一郎と、そうそうたるメンバーと対戦してきている。

 そんな中で最も長く藤波とライバル関係にあったのが木村健悟だった。しかし健悟からすれば藤波はどうしても超えられないカベ。健悟は引退試合の相手として藤波を指名したほど。そのライバル対決のハイライトとなったのが後楽園ホールで開催された史上初のワンマッチ興行(1987年1月14日)。ここではプロローグとして2人の関係を整理しておく。
    
 アントニオ猪木の一番弟子である藤波辰巳(当時)と、坂口征二の付け人を務めていた木村健吾(同)。何かと比較される立場にあった。藤波が猪木のあとを追って日本プロレスを飛び出した後に入門したためすれ違いで、初対決は健吾が坂口について移籍後の1973年4月21日、群馬・藤岡市民体育館。若手時代は33戦闘って、藤波の25勝3敗5分の戦績を残している。

 その後、互いに海外遠征を経験して相まみえたのが1979年12月13日、京都府立体育館。猪木がキム・クロケイド相手に異種格闘技戦をおこなった特別興行のセミファイナルで、健吾が藤波の持つWWFジュニアヘビー級王座に挑戦した。

 4年7カ月ぶりの一騎打ちは藤波の勝利。その後、ジュニア時代には立場を変え、藤波が健吾の持つ王座(NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級)に挑戦することもあったが1勝2分で藤波は負けなし。ヘビー級転向後もWWFインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦(1982年12月19日)した健悟だったが軍門に下っている。

 その後は維新軍との抗争激化、大量離脱、UWF勢Uターンなど、新日本正規軍を死守する立場にあったため対戦は棚上げ。1985年には猪木&坂口の黄金コンビを破ってタッグリーグに優勝、IWGPタッグの初代王者チームに認定されるなど新日プロの看板タッグチームになった。ただ、その間も健吾はずっと藤波をライバル視していた。

 のちに藤波vs長州力がタッグを含めて連日闘うことで“名勝負数え唄”と呼ばれるようになったが、藤波vs健吾は限られた対戦にとどまり、逆にプレミアム感が高まっていった。

 1986年10月に武藤敬司が“スペースローンウルフ”として凱旋帰国して売り出された。年末の『ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦』は藤波が武藤と、健吾はジョージ高野と組み、IWGPタッグ王座を保持しながらも一時的にチームを解消してエントリー。シリーズ終盤戦(同年12月10日)の大阪城ホールで、4年ぶりに両者の一騎打ちが組まれた。

 特別感の漂うカードだったが、猪木と前田日明がタッグで激突するメインにファンの注目が集まっていた。それもあって、唐突に組まれた感も否めなかった。ようやく訪れたチャンスに燃えた健吾だったが、気迫が空回り。結果はコーナーに突進してきた健吾を回転エビで丸め込んだ藤波の勝利。あっさりとカウント3が数えられ、盛り上がりにも欠けた一戦。

 内容に納得がいかない健吾は再戦を要求。それを受けて年明けの後楽園ホールで40度目のシングル対決が組まれたわけだが、ここから風雲急を告げることになる。
(つづく)

橋爪哲也

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