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2022-02-05

アントニオ猪木をイラ立たせた元レスリング五輪代表とは? 新日本プロレス歴史街道50年<8>【週刊プロレス】

コブラツイストを決めるアントニオ猪木

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 旗揚げ当初は対戦相手に恵まれず、その後はタイガー・ジェット・シン、上田馬之助との遺恨マッチに巻き込まれていった「新春黄金シリーズ
」におけるアントニオ猪木。そしてついには1980年、スタン・ハンセンに敗れて虎の子のNWFヘビー級王座を奪われてしまった。それ以外にも負傷欠場や不完全燃焼防衛など、以外にも新春シリーズは鬼門だった。その最たるものは……。

 1979年、1980年こそ新春シリーズに来日しなかったタイガー・ジェット・シンだが、1981年にはケン・パテラとの外国人2枚看板として来日を果たす。NWF挑戦はパテラに譲り、シンはUWA世界ヘビー級王座を狙って乗り込んできた。反則勝ちながら奪回に成功。アントニオ猪木はパテラ相手に至宝防衛を果たしているが、高熱で試合直前まで控室で横になっており、とても試合できるコンディションではなかった。パテラのパワーの前に防戦一方で、ワンチャンスでバックドロップを決めての勝利。試合内容は納得いくものではなかった。

 シンが全日本プロレスへ移籍した翌1982年にはアブドーラ・ザ・ブッチャーが乗り込んできた。1月28日、東京体育館でシングル対決が組まれ、猪木の反則勝ち。注目の一戦だったものの、内容的にはかみ合わず。

 翌1983年は、はぐれ国際軍との遺恨マッチが中心。1984年は前年のIWGPでの失神KOの因縁を引きずるハルク・ホーガンとの対戦となったが、ホーガンが特別参加だったためさほど盛り上がらず。むしろ札幌で藤原喜明が入場時の長州力を襲撃したことから、藤波辰巳と維新軍の話題が主流となっていった。

 1985年は“巨鯨”キングコング・バンディが新日プロ初参戦。猪木とはボディースラムマッチで対戦。結局、猪木がボディースラムで投げられながらも試合では勝利。米マットではボディースラムを決めた時点で勝利となるが、新日マットでは通常の試合にボディースラムで投げれば賞金が贈られる形だった。

 そのルールの違いをついて勝利したようなもの。バンディが猪木を叩きつけた時点で勝ったと勘違い。そこに延髄斬りを叩き込んでカウント3。だまし討ち的な勝利だった。

 1987年は終盤にクラッシャー・バンバン・ビガロが初来日。最終戦(2月5日、両国国技館)で一騎打ちをおこなったものの反則勝ち。越中詩郎、ジョージ高野をリング上から場外フェンス越しに放り投げて反則負けを喫するなど、ビガロの怪物ぶりばかりが印象に残った。

 1988年、1989年はビッグバン・ベイダーが来日、猪木との対戦が定番カードとなったものの、88年は反則やリングアウト決着、89年は藤波、長州が前面に立って迎撃。同年7月に参院選に初当選したことで、決着はつかないまま皇帝戦士との闘いはフェードアウトしてしまった。

 結果的にシン、ハンセン以外は好敵手に恵まれなかった印象。なかでも猪木らしさをまったく見せられなかったのが、1979年に来日したボブ・ループとのNWF戦だった(同年1月12日、川崎市体育館)。

 ループは1968年、メキシコ五輪レスリング全米代表でグレコローマン8位の成績を挙げている。翌1969年にプロ転向、1970年9月に日本プロレス、1974年7月には全日本プロレスに参戦。この時は同じアマレス出身でNCA王者だったボブ・バックランドとともに来日。

 アマレスでの実績ではループの方が上だっただけに、将来を嘱望されていた。それ以上にシュートにもラフにも強いと評判で、ストロングスタイルにはうってつけの存在。その評判から新日マット初参戦、TV生中継で猪木に挑戦するチャンスを与えられた。

 序盤から組み合っては猪木をグラウンドの引き込む。関節技を狙うわけでなく、アマレス流テクニックで猪木の動きを完全に封じ、ロープブレイクでスタンドに戻るたびに同様の攻めを繰り返す。派手な大技が出ない展開に、猪木はイラ立ちを隠せない。

 最後はループのマネジャー、ボリス・マレンコが乱入してループの反則負け。五輪代表の実力を見せつけたともいえるが、これほどまでに見せ場どころか猪木のいいところがない試合は珍しい。結局、再来日の機会は与えられず、米マットでも主流から外れていった。

 15年間の「新春黄金シリーズ」を振り返ると、猪木にとっては鬼門のシリーズだったといえるだろう。
(この項おわり)

橋爪哲也

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