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2022-02-19

後楽園ホールに3300人! 日本伝統の生活様式をぶち壊した元日興行…新日本プロレス歴史街道50年(15)【週刊プロレス】

アントニオ猪木vsローラン・ボック

 全日本プロレスが“王道”を打ち出したのは時代が平成に移ってからだが、それまでも力道山から受け継いだプロレスを守り抜いてきた。一方、新日本プロレスは異種格闘技戦や釘板デスマッチなど奇をてらった戦略を打ち出してきた。“プロレスの殿堂”でも興行面で様々な仕掛けをしてきた。

 今でこそセールを開催するなど元日から営業している店舗も多いが、せいぜい初詣に出かけるぐらいで自宅でのんびり過ごすのが昭和の正月の風景だった。各局が正月特番を編成するなか、NETからテレビ朝日に改称したのを記念に1979年からは新春プロレススペシャルとして前年末にニューヨーク・MSGに遠征した模様を元日に録画放映。ジュニアヘビー級王者として凱旋帰国してドラゴンブームを巻き起こした藤波辰巳(当時)の人気がその背景にはあった。

 そして1982年正月。前年4月に衝撃のデビューを果たしたタイガーマスクが四次元殺法で人気爆発。勢いに乗る新日本プロレスは東京・後楽園ホールからの生中継を企画した。元日にプロレス興行がおこなわれるのは、パイオニア精神を打ち出していた国際プロレスが1969年に1度だけ宮崎でおこなっており、13年ぶりのことだった。

 それまで元日に会場の貸し出しをしたことがなかったため、新日本側が後楽園ホールの職員のOKを取りつけて開催が決定。新春特番らしく、アントニオ猪木vsローラン・ボック、藤波vsボブ・バックランド(飛龍十番勝負第1戦)、タイガーマスクvsダイナマイト・キッド(WWFジュニアヘビー級王座決定戦)と、現在なら東京ドーム級の三大シングルに加え、長州力vsアニマル浜口、カール・ゴッチvs藤原喜明(エキシビションマッチ)がマッチメークされた。

 メインは1978年11月、西ドイツ・シュツットガルトに遠征し、判定負けを喫した相手へのリベンジマッチ。セミファイナルは藤波のヘビー級転向第1戦。そしてタイガーマスクは藤波が返上した王座を獲得することで、正式にジュニアヘビー級の後継者のポジションを確立するとともに、本格的に爆弾小僧とのライバル闘争が幕を開けた一戦となる。

 長州はメキシコ遠征に出発する前で、まだ革命戦士への変貌を遂げる前。新日本第4の男としてはぐれ国際軍団の闘将を迎え撃ったわけだが、前年暮れにスタン・ハンセンが全日本プロレスに移籍したことで“他人の得意技使用しない”という暗黙の了解が解けたこともあって、ラリアットを初披露。アニマル浜口との対戦も、その後の展開を考えると因縁めいている。

 生中継されるうえに元日に出かける習慣のない時代とあって観客動員が危惧されたが、フタを開けるとあっという間に満員に。それでも続々とファンが詰めかけバルコニーは鈴なり。通路は完全に埋まり、通勤ラッシュ並みのすし詰め状態。

 座席についていても身動き取れない。ロビーまでファンであふれ返り、扉の向こうに足を踏み入れられないほど。当日券発売窓口で「中に入っても見えません」と断っても、「それでもいいから入れてくれ」。用意していたチケットも足りなくなり、手元にあった座席の背もたれに貼る番号表の裏側に「立ち見」と記入してチケットがわりにしたほど。

 定員2000人弱のホールにもかかわらず、観客発表は3300人。当時は水増し発表が慣例になっていたが、この時ばかりは実数どころか過少発表されていたのではと思われるほど。規制が厳しくなった現在では塗り替えられることのないレコードを残すとともに、正月の興行界の慣例、さらには日本伝統の新年の風景を破壊する大会となった。
(つづく) 

橋爪哲也

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