四股名にズバリ「欧州(欧洲)」と名乗り、
大関へ駆け上がったブルガリア出身の琴欧洲(現鳴戸親方)。
その“先駆者”を目標にして上を目指し、栄位にたどり着いた
エストニア出身の把瑠都。
ヨーロッパから極東の国へ、
新風を吹かせた「挑戦者」二人の言葉を送る。
自ら考え、作った「左」の形。“強い精神力”の好敵手たち大学は途中でやめてきた。パスポートも没収された。退路は、ない。母国ブルガリアから9000キロ離れたこの島国に、新たな夢を追って身一つでやって来て、できること。それは、一日一日を無駄にせず、ひたすら稽古をし、強くなることだけだ。
「一日何番? 覚えてないですよ。30~40分は同じ相手と三番稽古をして、そこから申し合いをして……だから、何番取ったかなんて考えている暇はない。いまは20番、30番ですごいなんて言われるけれど、そんな量じゃなかったことは確かでしょう」
どこの出身であろうと関係ない。たくさん稽古をした者が上に行けるし、そうでない者は下に留まり、いずれ去っていくのが大相撲の世界。シンプルだが、それは琴欧洲が学んだ教訓であり、確信である。
レスリングでオリンピックを目指しながら、体重制の変更により相撲へと転向した琴欧洲が、来日し初土俵を踏んだのは、平成14(2002)年九州場所、19歳のときだった。他の新弟子たちと比べれば遅い年齢での入門。だからこそ、「人の2倍、3倍と汗を流さなければ強くはなれないんだ」という意志が、所要11場所、負け越しなしでのスピード入幕へとつながった。とはいえ、言葉もまったく違う世界での挑戦は、そう簡単なものではない。すべては自分で考え、身につけるしかなかった。
「ただでさえ、誰からも何も教えてもらえない。見て覚えろという時代ですからね。結局は、人ぞれぞれ、体の使い方も違うわけだから、誰のマネをするとか、参考にするとかもなかった。自分で考えて、考えて、精いっぱい頑張る。それしかなかったですよ」
先代佐渡ケ嶽親方(元横綱琴櫻)から教わったのも『頭で当たれ!』という一言だけ。ただ、それが一つ、琴欧洲の取り口へのヒントになったのは確かかもしれない。身長2メートル以上と高さはあるが、線が細いために、上体が起きていては立ち合いで吹き飛ばされ、相撲にならない。
「小さくなって、小さくなって、下から当たって……。全部“下から上に”という意識」
持ち前の長身を低く折り曲げ、強く当たり、前ミツから探っていく。
中でも自信があったのは「左」だ。
「上手でも、下手でも、左で廻しを取る。これが、私の中では一番いい形でしたね。特に左上手を取ればどうにかなる、誰にも負けない、という自信がありました。もちろん、相手もそれが分かっているから、簡単には取らせてもらえない。そこは稽古の積み重ねの中で、本場所で取っていく中で、考えて工夫して、成長していった部分だったと思う」
入幕までのライバルと注目された萩原、のちの横綱稀勢の里との相撲を見ても、早い段階で自分の形を身につけているのが分かる。幕下時代の平成16年春場所3日目の対戦は、立ち合い“下から上へ”の動きで右を差し込み、左前ミツを引き、最後は二本差されながらも上手を引き付けて寄り倒した。両上手を強烈に引き付け、モロ差しの相手の動きを封じてしまうパワーも特徴だった。十両優勝を果たした同年名古屋場所8日目には、萩原の当たりを低い姿勢で受け止め、左下手を素早く取り、逆に今度はモロ差しとなって寄り倒している。
とはいえ周囲が騒ぐほど、琴欧洲がこの日本人力士のホープを特別視していたということはないようだ。
「幕下のときだって、7番取るうちの一人、というだけ。特に誰かを意識することはなかった。幕内でもそう。引退する直前の場所だって、彼には勝っているでしょう」
幕内では10連勝を含む琴欧洲の27勝15敗。新十両は同期、新入幕もほぼ同期だが、大関ヘは6年も先んじている。内容的には琴欧洲の圧勝といってよい。(続く)
対戦成績=琴欧洲10勝―35勝白鵬、琴欧洲7勝―16勝朝青龍、琴欧洲27勝―15勝稀勢の里
『名力士風雲録』第28号 琴欧洲 琴光喜 把瑠都掲載