師匠のことを、陰で「オヤジ」と呼ぶ力士が多いようです。そのほうが親しみを込めやすいんでしょう。では、実のオヤジはどうでしょうか。同じ男同士。中には、父から相撲の手ほどきを受けた者も多く、父の背中を見て育ち、尊敬し、慕っている力士はそれこそ枚挙にいとまはない。前回は母を取り上げたので、今回は父にまつわるエピソードを取り上げましょう。
「父の死を乗り越え」父親の言葉は万金に値する。誰だって道に迷うときがある。
「オレは強くなるために日本に来たんです。決してお金のためじゃない」
と大関(当時、のち横綱)日馬富士は言い切るが、修業生活は想像以上に厳しかった。初めてモンゴルに帰国を許されたのも来日して1年半後の平成14(2000)年初場所後のことだ。懐かしい故郷に戻り、両親に接した日馬富士(当時安馬)は、
「もう日本には帰りたくない」
と警察官だった父親のダワ―ニャムさんに泣いて訴えた。すると、ダワ―ニャムさんはこう言って諭した。
「男は、いったん目標を持ったら、最後までそれを目指さないといけない。ここで逃げたら、次に何をやっても成功しない」
この父親の言葉に背中を押され、再来日した日馬富士が十両に昇進したのはそれから2年後の平成16年春場所のことだった。
「あの父のひと言で目が覚め、死ぬ気でがんばったんだ。早く父に恩返ししたかったからね」
と日馬富士は113キロの軽量で関取の仲間入りを果たした秘密を明かしている。
その尊敬するダワ―ニャムさんが急死したのは平成18年の暮れ押し迫った12月28日のことだった。
日馬富士が贈ったクルマでモンゴルの雪原を走行中、スリップ事故を起こしたのだ。母から連絡を受けた日馬富士はその日のうちに帰国したが、ショックのあまり、口もきけない状態だったという。
再来日したのは、初場所初日前日の1月6日。すっかり憔悴し、やせこけた日馬富士を見た師匠の伊勢ケ濱親方(元横綱旭富士、当時安治川親方)は、
「ひょっとすると、コイツはこのままダメになるかもしれない」
と思ったそうだ。しかし、その不安を押し隠すと次のように叱咤激励した。
「お前の悲しい気持ちはよくわかる。オレも、入門して2年目の場所直前に母を亡くしているから。でも、肉親の死で休んだ力士はこれまでいない。お前は力士で、土俵に上がることが仕事なんだ。父のことは忘れることはできないだろうから、忘れろとは言わない。でも、土俵に上がったときだけは相撲に集中しろ」
初日の豊真将戦は文字通りのぶっつけ本番だった。日馬富士は軍配が返ると猛然と突っ張り、最後はモロ差しになって寄り切った。それはまでに気力を振り絞った勝利だった。日馬富士はこのあとも鬼と化し、二ケタの10勝を挙げてよく場所の小結返り咲きを確実にした。
千秋楽、稀勢の里に土俵際の上手投げで逆転勝ちした日馬富士はしみじみとこう語っている。
「相撲に感謝します。いろんな意味で。相撲を取ることで悲しみを忘れることができたし、勝ってお母さんを喜ばすこともできた。相撲があって、ホントに良かった」
男は悲しみを乗り越えて強く、逞しくなっていく。
月刊『相撲』平成23年6月号掲載