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2022-06-18

アントニオ猪木のバッドニュース・アレンに対する信頼感…新日本プロレス歴史街道50年(43)【週刊プロレス】

バッドニュース・アレン

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 新日本6・12大阪城ホール「DOMINION」でジェイ・ホワイトがオカダ・カズチカを破って、IWGP世界ヘビー級王座を奪取した。ほかにも同大会に出場したカール・アンダーソン、バッドラック・ファレ、タマ・トンガ、アーロン・ヘナーレ、急性虫垂炎で欠場したジュース・ロビンソンなど、留学生がトップレスラーに成長して新日本マット中心に座っている。

 その道を開いたのが1977年に初来日を果たして新日本に入門したバッドニュース・アレン。1980年からは年間のほぼ全シリーズに参戦して外国人エースをサポート。ベルトを巻くことはなかったものの、新日本プロレス殿堂が設立されるなら絶対に外せない活躍を残した名バイプレイヤーだ。

 また“黒い猛牛”の記録を紐解くと、アントニオ猪木から絶大な信頼を寄せられていたことが浮かび上がってくる。

 1976年モントリオール五輪柔道銅メダリストの実績を引っ提げて坂口征二に挑戦する形でプロデビューを果たしたバッドニュース・アレン(本名のアレン・コージでデビューした後、バッファロー・アレンのリングネームに)。その後、新日本に“留学”してプロレスラーに転向を果たした。

 柔道五輪銅メダリストの実力は本物で、藤原喜明、木戸修、永源遙、木村健吾、栗栖正伸、荒川真といった中堅相手に連戦連勝。長州力、星野勘太郎からも勝利を挙げているほか、トニー・ガレア、ニコライ・ボルコフ、チーフ・ジェイ・ストロンボー、バグジー・マグロー、バロン・シクルナ、サイレント・マクニーからも勝利。シングルマッチで敗れたのは坂口、ストロング小林、藤波辰巳、ウイリエム・ルスカ(柔道ジャケットマッチ)のみだった。

 留学期間を終えるとWWF(当時)、ロス地区をサーキット。そして1980年からは外国人サイドとして新日本マットに定着した。

 ロスでジョジョ・アンドリュースとのコンビで挑戦したのを皮切りに、マサ・サイトー、ゲシュタポと組んで坂口、長州組が保持した時期に北米タッグに挑戦。また坂口が保持していたWWF北米ヘビー級王座には2度挑戦している。両王座はIWGP構想に賛同するとして1981年4月に返上・封印されたが、その後も防衛戦が続けられていたならアレンが奪取していたはず。その点では不運だった。

 アントニオ猪木との初シングルは、外国人サイドについてからの1980年6月23日、岩手・宮古大会。わずか7分足らずの敗戦。それを含めて計12回対戦。結果は猪木の全勝だが、アレンにとってのハイライトは1984年2月7日、蔵前国技館での一戦だろう。試合タイムは10分足らずだが、猪木は切り札の卍固めまで繰り出して勝利するほどまで苦しめた。

 特筆すべきは12回のうち海外で4度、一騎打ちをおこなっていること。それもフィリピン(1984年2月12日、現地時間=以下同じ)、パキスタン(同年8月15日)、イタリア(1988年1月23日=ミラノ、翌24日=ローマ)と、いずれも新日本初上陸の大会。初めて新日本をライブ観戦する観客にもメインにふさわしい闘いを披露できるという信頼感と安心感がそこに見え隠れする。

 実は1990年12月3日、イラク・バグダッドで開催された「スポーツと平和の祭典」でも猪木vsアレンが組まれていた。しかし猪木は現地での精力的な活動のなか足が腫れあがり、「延髄斬りができないから」の理由で欠場。アレンは栗栖とシングルマッチを闘った。それ以降、両者のシングルマッチは組まれておらず、ローマでの対戦が最後の一騎打ちとなってしまった。

 人質、そして日本から駆けつけた彼らの家族の前でどのような闘いを繰り広げ、イラク政府の心にどう刺さったのかは興味深いところ。そして猪木の呼びかけにこたえて“危険地帯”に飛び込んだアレンの心境も。しかし、それはもう明かされることはない。

橋爪哲也

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