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2023-05-22

【NFL】伝説のRBジム・ブラウンが死去 ブレイディ以前の元祖「史上最高の選手」の生きざまとは

大リーグ、メッツ対ガーディアンズ戦の最中に、場内の巨大モニターに映し出されたRBジム・ブラウンの訃報=photo by Getty Images

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 アメリカンフットボールの世界最高峰、米NFLで、史上最高のRBと評価されるジム・ブラウンが、現地5月18日、カリフォルニア州ロサンゼルスの自宅で死去した。87歳だった。妻のモニークさんが、SNSを通じて発表した。

 クリーブランド・ブラウンズのRBとして、圧倒的なラン成績を残し、NFL史上ただ一人、1試合平均100ヤード以上のランを記録した。現役9シーズンでラン1位に8回輝き、AP通信のシーズンMVPにも3回選出された。通算成績は、ラン12312ヤード、106TD。1971年にプロフットボール栄誉の殿堂入りを果たした。俳優としても多くのハリウッド映画に出演、更に現役時代から、公民権運動など、黒人の社会的地位向上のための活動に取り組んだ。(写真はすべてGetty Images)

傑出した能力、驚天動地の記録
当時としては、驚異的な成績でNFLを席巻したRBジム・ブラウン=photo by Getty Images

 ブラウンは1936年2月17日、ジョージア州の大西洋岸の小さな町で生まれた。プロボクサーの父から巨体と類稀な運動能力を引き継ぎ、ニューヨークに移り住んだ高校時代は13のスポーツで表彰されるアスリートだった。

 シラキュース大に進学した1953年は黒人への人種差別がごく普通にあった。ブラウンはチーム唯一の黒人選手だったが、奨学金の約束を反故にされたり、まったく向いていないパンターをやらされそうになったこともあったという。


 2年時に、スターター選手の負傷でFBとして出場機会を得ると、75回で439ヤードを走り、能力の片りんを見せた。3年時にはスターターとなり、ラン128回で666ヤード6TD、4年時には158回で986ヤード13TDを記録し、全米最優秀選手・ハイズマントロフィーの投票でも5位となった。当時は1シーズン8試合だった。

 その他のスポーツでもブラウンは大活躍した。陸上の十種競技では全米選手権で5位、バスケットボールではオールアメリカンセカンドチーム選出、そしてフットボールと並んで最も得意としたラクロスでは全米2位となる43ゴールで、オールアメリカンに選出された。ブラウンはラクロスの殿堂入りも果たしている。

 ブラウンは1956年11月に行われたNFLドラフトで、ブラウンズに全体6位で指名され入団。1年目から942ヤードを走り、当時のNFLルーキー記録を樹立した。

 翌1958年には、ラン1527ヤード17TDで、NFL新記録を樹立した。それまでのシーズン最多ラッシングヤードを280ヤード近く更新する驚天動地の記録だった。

 当時はシーズン12試合で、ラン2位の選手が791ヤード。同じ年に、ジョニー・ユナイタスが記録したシーズン最多TDパスが19だったのだから、ブラウンの記録が並みはずれていたことがわかる。

 シーズンが14試合制になった後、1963年には、シーズンのラン記録を1863ヤードに伸ばした。翌1964年のシーズン中に、前人未到の通算ラン10000ヤードを突破した。このシーズンは、NFLチャンピオンシップでも優勝した。

 188センチで105キロと、当時としては超大型だったが、均整がとれていてスピードがあった。

 バスケットでNBAからドラフト指名されるほどだったブラウンはパスレシーブも得意だった。プロ入り後4年目からは年平均350ヤード以上を捕球。通算では20本のTDパスをキャッチした。

 29歳だった1965年にはキャリア3回目のラン1500ヤード超えと、自己最多タイの17TDランを記録し、3回目のMVPにも輝いたが、翌年の夏季キャンプ時に映画のロケを優先させたことで、オーナーと揉め、あっさり引退を決めた。

 現役9シーズンでラン2359回12312ヤード、1回平均5.2ヤード、1試合平均104.3ヤード、ランTD106。パスレシーブは262回2499ヤード、20TDだった。主な業績は次の通り。

・AP通信のMVP3回(1957年、1958年、1965年) 次点2回(1963年、1964年)
・ルーキー・オブ・ザ・イヤー(1957年)
・オールプロ ファーストチーム(1957年~1961年、1963年~1965年)
・オールプロ セカンドチーム(1962年)
・プロボウル出場9回(1957年~1965年)
・ラン獲得ヤード1位8回(1957~1961年、1963~1965年)
・NFL王者1回(1964年)

 現役時代の118試合すべてに先発出場し、欠場はゼロ。その間ブラウンズは79勝34敗5分けで、負け越しシーズンは一度もなく、NFLチャンピオンシップに3回出場し、優勝1回を果たした。

黒人地位向上運動の傍ら、奔放な行動 女性誌でヌードに
 当時としては、驚異的な成績でNFLを席巻したRBジム・ブラウン=photo by Getty Images
 ブラウンの現役時代は、米国では黒人公民権運動が社会的に大きなムーブメントとなっていた。ブラウンは、この問題にも積極的に関与した。ボクシングのヘビー級王者、モハメド・アリがベトナム戦争に反対して徴兵を拒否し、プロボクサーライセンスを剥奪された際は、NBAのビル・ラッセルや、カリム・アブドゥールジャバ―、カール・ストークスと共に、「クリーブランドサミット」に参加、アリへの支持を表明した。

 一方で、抗議活動の中でのデモ行進やピケ、首都ワシントンで続いたキャンプなどへの疑問も呈した。現実的な解決策として、黒人の社会的地位向上には持続的な経済基盤を築く必要があるとして、「黒人産業経済連合」を組織し、黒人を含むマイノリティー経営企業のための融資や助成金を確保した。

 1968年の米大統領選挙では、ブラウンの取り組みに賛意を表した、共和党のリチャード・ニクソン候補を支援した。

 その後は、都市部でギャングとなってしまう青少年の更生や、刑務所内で受刑者に職業訓練を受けさせるための組織にも大きく関与した。

 といって、ロールモデルとは言い難い部分もあった。主に女性への暴力が理由で、警察に7回も逮捕された。女性関係は奔放で、10代の学生と婚約を発表し、後に取り消したりもした。1973年には、著名な女性誌「プレイガール」のモデルとなって全裸の写真も公表した。

 フィールドの中でも、外でも、自らの信ずるままに行動し、走り回った人生だった。

野球で言えばベーブ・ルースのような存在
 晩年になっても、元気に公けの場に姿を現していたブラウン=photo by Getty Images
 NFLだけでなく、米スポーツ界の伝説中の伝説が、天に召された。ブラウンを、冒頭で史上最高のRBと紹介したが、QBトム・ブレイディが、晩年にスーパーボウル優勝を積み重ねるまでは、全ポジションを通じてNFL史上最高の選手といえば、ブラウンのことだった。実際、米の総合スポーツ雑誌の老舗「ザ・スポーティング・ニュース」は、2002年、最も偉大なプロフットボール選手にブラウンを選んでいる。

 ブラウンが生まれたのは、プロ野球の長嶋茂雄さん生誕の3日前。記録面や社会的な活動を含めれば、ある意味で、日本球界のスーパースター、長嶋さん以上のインパクトを、米国のスポーツ界に対して持った選手だった。

 筆者がNFLを見始めた1970年代後半には、ブラウンはすでに引退して10年以上経過していたが、野球の大リーグで例えれば、ベーブ・ルースのようなネームバリューの存在として認知されていた。

 ブラウンが活躍した時代、NFLだけでなく、対抗リーグのAFL(後にNFLと合併)も含めたプロフットボール全体で、現在のような効率的で効果的なパスオフェンスは存在しなかった。

 ブラウンが、1958年にシーズンラン記録1527ヤードを叩き出したとき、この数字を上回るパスを投げたQBはNFLに6人しか存在しなかった。彼らが記録したパスTD数は平均で15だったが、被インターセプトも14回記録していた。

 この年、レシーブも含めて、18TDを記録しファンブルは5回。1回平均5.9ヤードで数字上はラン2回でファーストダウンを更新するブラウンは、確実にQB以上の存在だった。

 現代のNFLに置き換えれば、ラン2500ヤード、25TDくらいの役割を、ブラウンは当時のフットボールで果たしていたのではないだろうか。

 オフェンス、ディフェンスともにラインでも100キロ台、110キロ台の選手が普通にいた時代に、大型で運動能力の高かったブラウンは止めようがなかった。原野を巨大な猛獣が暴れまわるように、密集するディフェンスを突いて、タックルをはねのけ、縦横無尽に走り回った。

 引退の理由も、変わっていた。本格的な映画俳優としても道も歩んでおり、映画の海外ロケのため、ブラウンズの夏季キャンプに参加できなかった。オーナーのアート・モデルが、欠席期間中、1週間につき1500ドルの罰金を科すと発表したことがきっかけとなった。プロフットボールへの情熱が冷め、引退の道を選んだ。30歳になったばかり、前年に3度目のMVPを受賞し、選手生活で第2のピークを迎えていた時だった。

 そのまま現役を続けていた場合、負傷さえなければ優に4,5年はプレーできていただろうし、今のNFL通算ラン最高記録18355ヤード(エミット・スミスが保持)をも上回っていたかもしれない。

13歳下のハリスへの対抗心

 引退から17年後に、ピッツバーグ・スティーラーズのRBフランコ・ハリスが、通算ラン記録を塗り替えそうになった時、47歳になっていたブラウンは、真剣に現役復帰を考えたという。

 「タックルに来たディフェンス選手の記憶に、『痛み』を刻み込め」と、他の選手に語っていたというブラウン。ディフェンスを避けずに真っ向勝負してきた自分のスタイルに拘りを持っていた。

 同じように大型でありながら、ディフェンスを避けるのも巧みで、負傷することもなく、スーパーボウル優勝を重ねてきたハリスが、自分の記録を塗り替えるのは、我慢がならなかった。「あいつは、タックルを避ける。直ぐアウトオブバウンズに出る」と批判した。

 ハリスは、結局、ブラウンの記録を塗り替えられずに引退。シカゴ・ベアーズのウォルター・ペイトンが、ハリスを追い抜いて、そのまま、ブラウンの記録を更新した。ブラウンの現役復帰も実現はしなかった。

 ハリスは、ブラウンが引退した6年後にNFL入りし、ブラウンが全盛時には、歯牙にもかけない弱小チームだった同地区のスティーラーズを強化し、ブラウンが現役時には存在もしなかった「スーパーボウル」というビッグイベントでヒーローとなっていた。ブラウンにとっては、ハリスのすべてが気に入らなかったのかもしれない。

 1984年には、引退した直後、34歳のハリスと、ブラウンがバスケットボールや40ヤードダッシュなど4種目で対決するというテレビ特番が企画・放送された。40ヤード走では、ハリスが5秒16で走ったのに対し、47歳のブラウンは走っている途中でハムストリングを痛めて5秒72に終わった。

 昨年末、13歳若いハリスが、死去。負けず嫌いのブラウンは、ハリスが先に逝ったのを見届けてから、この世に別れを告げたような気がしてならない。
 
 

【小座野容斉】

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