アメリカンフットボールの最高峰、米NFLで、ピッツバーグ・スティーラーズの黄金時代を支えた、名RBのフランコ・ハリスが現地12月21日に死去した。72歳だった。公式サイトNFL.comなどが速報した。
NFLから「史上最高のプレー」と認定された、1972年の「イマキュレート・レセプション=聖母受胎キャッチ」
ハリスは1970年代に最強と言われたスティーラーズで、エースRBとして12シーズンに渡り活躍、スーパーボウルでも4回勝利した。
またNFLから「史上最高のプレー」と認定された、1972年の「イマキュレート・レセプション=聖母受胎キャッチ」で、劇的な逆転タッチダウン(TD)を決めたことでも知られ、「ミラクル・ハリス」と呼ばれることもあった。
12月23日はイマキュレート・レセプションから50年に当たるため、現地24日は当時と同じ対戦カード、スティーラーズ対レイダース戦が、ピッツバーグで組まれ、その試合のハーフタイムに、ハリスの背番号32を永久欠番とするセレモニーが行われる予定だった。
=steelers.com
ハリスは1950年3月7日生まれでニュージャージー州の出身。ペンシルバニア州立大ではFBとしてプレーした。188センチで105キロと大型ながらスピードに優れパスレシーブも巧みだった。
1972年のドラフト1巡13位でスティーラーズに入団すると1年目から活躍。3年目の1974年シーズンに、スティーラーズがスーパーボウル初優勝を飾った際、1試合158ヤードを走ってMVPとなった。その後もエースRBとして、チームをけん引した。
スティーラーズの殿堂入りWRで、遠征ではいつもハリスとルームメートだったリン・スワンは「フランコ・ハリスをドラフト指名したとき、彼はオフェンスに心をもたらし、規律をもたらし、欲求をもたらし、ピッツバーグで優勝する能力をもたらした」と語っている。
スーパーボウル4試合で先発し4勝したRBはNFL史上ハリスしかいない。スーパーボウルでのラン通算354ヤードも、未だに最多記録で、RBが重視されない現代のNFLでは破るのが難しい記録の一つとされている。またポストシーズン19試合で記録したラン1556ヤード、16TDは、エミット・スミス(元カウボーイズなど)に次いで2位となっている。
現役生活は13年で、12年がスティーラーズ、1年がシーホークス。1000ヤード以上8シーズン(5回は1シーズン14試合時の記録)、通算ラン12120ヤードは、引退時、ウオルター・ペイトン、ジム・ブラウンに次いでNFL史上3位だった。ラン91TD、パスレシーブ2287ヤード9TD。プロボウル選出9回。1990年にプロフットボール栄誉の殿堂入りを果たした。
父は米軍人、母はイタリア人で、現役中は、イタリア系米国人からも強い支持を受けた。引退後もピッツバーグにとどまり、チャリティーにも積極的に参加した。スティーラーズのセレモニーには、ディフェンスの中核だったジョー・グリーンと共に常に顔を出した。
今年4月のドラフトでは、QBケニー・ピケットの1巡指名を読み上げていた。
=Getty Images
イマキュレート・レセプションとは
1972年にRBハリスがドラフト1巡で入団した時のスティーラーズは、弱小チームだった。1933年の球団創設以来、39シーズンで負け越し25回、地区優勝はわずか1回。8年連続負け越し中だった。今の強豪の姿はどこにもなく、弱くて仕方がないチームだった。
若き闘将チャック・ノールがヘッドコーチ(HC)に就任し、DTジョー・グリーン、QBテリー・ブラッドショーら中心選手をドラフト1巡で指名して、少しづつ力をつけていたが、常勝チームには、まだ遠かった。
ハリスがペンシルバニア州立大学から入団したことで、スティーラーズのオフェンスは核を得た。この年11勝3敗で地区優勝、25年ぶりにプレーオフにも進出した。二桁勝利は、チーム創設40年目で初めてだった。ハリスはラン1055ヤード10TDで、オフェンスの新人王にも輝いた。
ハリスが、ピッツバーグの英雄となったのは、そのプレーオフのことだった。1972年12月23日、ディビジョナルプレーオフで、オークランド・レイダースと対戦したスティーラーズは、レイダースの強力ディフェンスの前にTDを奪えず、6-7とリードされたまま最終盤を迎えていた。
第4クオーター、残り22秒でタイムアウトなし、4thダウン10。絶体絶命のピンチからQBブラッドショーが投じたパスは、レイダースのSジャック・テータムの体にバウンド。そして、走ってきたハリスの前に飛んできたのだった。
ハリスはボールを地面すれすれでキャッチした。そしてエンドゾーンを目指して疾走した。劇的な逆転TDだった。本拠地スリーリバースタジアムのファンは、次々にフィールドに飛び降りてハリスを囲み、狂喜した。当時のスティーラーズオーナー、アート・ルーニーは敗戦を見るのが辛いので、このプレーの前に、VIP席を退出しエレベーターに乗り込んでしまい、ハリスの奇跡を直に見ることができなかったという。
最終スコアは13-7。スティーラーズがレイダースを撃破して、AFC決勝まで進出した。決勝ではドルフィンズに敗れたが、スティーラーズが常勝チームとなる第一歩がこのシーズンだったとされている。
=Getty Images
=撮影:小座野容斉
このプレーは「イマキュレート・レセプション(The Immaculate Reception)」と名付けられた。12月23日はクリスマスイブの前日であり、聖母マリアがイエスを処女懐胎したとされるエピソードから、「Immaculate Conception」=無原罪の懐胎をもじったのだった。
そしてハリスは、この後「ミラクル」と呼ばれるようになる。
NFLの公式映像機関、NFLフィルムズが選んだ、歴史的なプレーの第1位になっており、youtubeなどで今も見ることができる。
2020年のNFL100周年記念シーズンには、投票でNFL史上最高のプレーに選ばれた。「あのプレーは本当に70年代の我々のチームを象徴している」とハリスは答えていた。
今年9月、球団が、『32』を永久欠番とすることを決めた際には「あれから50年も経ったなんて信じられない。本当に長い時間だ」とハリスは語った。
「このプレーが今でも生きていることは、スリリングでエキサイティングなことだ。本当にたくさんのことを教えてくれる。とても重要なことなんだ」
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スティーラーズのマイク・トムリンHCは、1972年3月生まれで、このプレーの時には9カ月の乳児だった。
トムリンHCは、12月20日の記者会見で、このチームにとってイマキュレート・レセプションがどれだけ重要なのか、ハリスがスティーラーズの歴史にどんなインパクトを持っていたのかについて、選手を教育する必要はなかったと話した。
今の現役選手たちも、youtubeやソーシャルメディアで、全員がこのプレーについて知っているからだという。
「我々のチームのプレーの歴史の中で、まさに最も美しいものだ。この組織で働く中で、このプレーがどれだけチームに影響を与えたのかを理解する時、とても謙虚な気持ちになる。それは20代の選手も同じだ」とトムリンは語っている。
スティーラーズ元RBジェローム・ベティス私が感じている痛みは言葉では言い表せない。フランコは常に兄弟であり、指導者であり、私の中で、偉大さとは何かを定義する基準だった。彼はフィールド上の伝説であり、フィールド外では卓越性の権化だった。尊敬し、彼のようになりたいといつも熱望していた。R.I.P.32
=撮影:小座野容斉