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2024-01-09

キラー・カーン追悼…アメリカでの出世を見てきた先輩レスラーが語った思い出「小切手と預金通帳を見せて口説き落としたものの、妊娠を聞いて日本への逃亡を企てた。しかし…」【週刊プロレス】

キラー・カーン

“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントの足を折ったことで遺恨試合に発展。キラー・カーンとなってからアンドレとのシングルマッチは39試合おこなわれている。その日本におけるハイライトは、「第5回MSGシリーズ」優勝決定戦での一戦だろう(1982年4月1日、東京・蔵前国技館)。メインイベントとして全米各地で激突した際は、ワンマッチで1万ドルを稼いだまさに“ドル箱カード”だった。今回は日本プロレス時代の先輩であるミスター・ヒトが専門紙の連載で明かしたカーンのお金にまつわるエピソード。(文中敬称略/橋爪哲也)

     ◇      ◇      ◇

キラー・カーンは彼女(シンディ夫人)と結婚するとき大変だったんだ。

彼女はプロレスファンじゃなかったから、アリーナに行ったことはなかった。カーンがタンパにいる頃に知り合ったんだけど、働き者で真面目な娘だったよ。

その頃、カーンはフロリダでトップを張ってたな。ニューヨーク(WWF=当時、現WWE)に入る前だから、まだ全米で有名になってたわけじゃなかったけど。それでも週に2000ドルぐらい稼いでたよ(当時のレートで約40万円)。彼女はスーパーのレジ打ちだったから、1週間、一生懸命働いても200ドルぐらいにしかならない。

カーンはオフィスから渡された小切手を見えるところに何げなく置いとくんだ。テーブルの上とかにね。本人は何気なく置いたつもりなんだろうけど、そんなことするヤツいないよ(笑)。でも彼女は、それを見て“エッ、こんなに稼いでるの!?”ってビックリしたんだろうな。カーンの作戦は、まんまと成功したわけだ。

でもカーンの作戦はそれで終わらないんだ。追い打ちをかけるように預金通帳を見せて。タンパにいた間、4カ月分のギャラが記帳されてるからね。それを見て彼女もクラクラってなったんだろうな。言葉じゃなく、数字で口説いたってわけさ。

そうこうしてるうちにいい仲になって子供ができた。そして彼女に「認知してほしい」って言われた。カーンはあんなゴッツイ体してるくせに気が小さくてね。まだ結婚する気なかったから、慌てて日本に逃げ帰ろうとしたんだよ。オレのところに来て「こういうわけで日本へ帰ります」って言ったんだけど、オレは「お前、逃げよう空港へ行っても、彼女が訴えてアメリカの警察が手配したら一発で見つかるぞ。お前の顔を見間違うヤツなんていないからな」って言ってやったんだ。そしたら「そうですか……」って大人しくなって。それであきらめがついたんじゃない?

そうこうしているうちに彼女が書類を持ってきて、「これにサインをしてほしい」って。あいつもよく見てからサインすればよかったんだけど、気が動転してたのか言われるままにサインして。それが婚姻届けだったってわけだ。

モンゴリアンを名乗ったレスラーは多かったけど、カーンほどピッタリはまったヤツはいないね。一番モンゴリアンらしい顔をしてるよ。

そういえばカーンはバクチも好きだったな。まあ、アメリカをサーキットするレスラーは、みんな好きなんだけどな。バクチっていうより、勝負事が好きなんだろうな。

カーンは仲間うちでやってると強くて勝ちまくるんだけど、カジノだと弱いんだ。やっぱり気が小さいんだろうな。


<プロフィル>
キラー・カーン…本名・小沢正志。1947年3月6日生まれ、新潟県蒲原郡吉田町(現燕市)出身。中学卒業後、大相撲・春日野部屋に入門。1963年3月に初土俵。越錦の四股名で最高位は幕下40枚目。1970年に廃業すると、翌1971年1月に日本プロレスに入門。吉村道明の付き人を務め、同年11月20日、桜田一男戦でデビュー。1973年4月、坂口征二に付いて新日本プロレスに移籍。同年12月、第1回カール・ゴッチ杯で準優勝。1976年8月に海外武者修行に出発。一時帰国後の1978年にメキシコに再出発してモンゴル人キャラクターに変身。1979年3月にアメリカに渡り、キラー・カーンを名乗る。1980年末にWWF(現WWE)入り。いきなりニューヨークMSG(マディソン・スクエア・ガーデン)のメインイベントでボブ・バックランドの保持するWWFヘビー級王座に挑戦する。1981年5月、ニューヨーク州ロチェスターでの試合でアンドレ・ザ・ジャイアントの右足をニードロップで骨折させたとして世界的に名が轟く。アンドレ復帰後は全米各地で遺恨試合が繰り広げられた。長州力率いる維新軍に加わり、日米を往復しながら参戦。1985年にはジャパン・プロレスに移籍、日本での戦場を全日本プロレスに移す。長州らの新日プロUターンをアメリカで聞いて戦場をWWFに移すも、1987年11月、当然の引退を表明。その後は、歌手として活動するかたわら、新宿区内でスナック、居酒屋、歌謡居酒屋を経営。2023年12月29日、営業中に動脈破裂を起こして救急搬送されるも帰らぬ人となる。76歳だった。

ミスター・ヒト…本名・安達勝治。1942年4月25日生まれ、大阪府大阪市天王寺区出身。出羽の海部屋に入門し、浪速海の四股名で1960年5月場所で初土俵。最高位は幕下17枚目。67年初場所を勝ち越して引退。その後、日本プロレスに入門する。日本プロレス崩壊直前に永源遙とともにアメリカに遠征。トーキョー・ジョーのリングネームでカンザス地区をサーキット。カナダに転戦した際、ミスター・ヒトを名乗る。カルガリー地区のプロモーター、スチュ・ハートに気に入られ、コーチ、トレーナーとしての手腕も発揮。同地に定着しながら西ドイツ(当時)、フロリダ、テキサス、日本、東南アジアなどを転戦する。カルガリーでは自宅のベースメントに若手日本人レスラーの住まわせて面倒を見たほか、日本に外国人レスラーを送り込むブッカーの役割も果たした一方、1988年のカルガリー冬季五輪では日本へのテレビ中継にも貢献。カルガリー地区の衰退ともに現役を引退。1990年10月、SWSのレフェリーとして参加したのを機に帰国。旗揚げ間もないPWCや大日本プロレス、レッスル夢ファクトリーでコーチとしてレスラーを育てる。大阪でお好み焼き店を経営していたが糖尿病悪化により2010年4月20日、大阪市内の病院で死去。67歳。同日、大阪府立体育会館・第2競技場で行われた新日本プロレスの興行で追悼の10カウントゴングが鳴らされた。

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週刊プロレスNo.2282 (2024年1月24日号/1月10日発売) | 週刊プロレス powered by BASE

今週号の表紙は新日本のイッテンヨン東京ドームでIWGP世界ヘビー級王座を奪取した内藤哲也です。日本プロレス界最大イベントのドーム大会は内藤が4年越しの「デ・ハ・ポン!」の大合唱実現で悲願達成。そのほかオカダvsブライアン、ヒロムvsデスペラードなど注目試合中心にリポート。ドーム大会と翌日の墨田区大会の模様は1月11日発売の増刊号でも詳報。NOAHは有明アリーナで年はじめのビッグマッチ開催。メインに組まれて注目された丸藤正道vs飯伏幸太ほかGHCヘビー戦・拳王vs征矢、NOAH&新日本vsHOTなどこちらも注目カード目白押し。スターダムは年末に恒例の両国国技館ビッグマッチ開催。2大王座がともに移動。ワールド王者が舞華、ワンダー王者は安納サオリが新王者に。年明けもスターダムは横浜、TDC、後楽園と怒涛の大会ラッシュ。DDM解散、赤白王座の挑戦者決定など年明け早々さまざま動きを追跡。全日本は大晦日代々木決戦で三冠王者の中嶋勝彦が宮原健斗のリベンジを許さずV1。3日後にはV2達成。新年恒例の1・2&3後楽園もあわせて年末年始の3大会をリポート。そのほか今週号は年末年始の33大会を総決算。DDT後楽園&新宿、ドラゲー大阪&京都、FREEEDOMS後楽園、大日本・後楽園、GLEAT・TDC、東京女子・後楽園&新宿など掲載。【注意】発送後の返品・返金は原則不可とさせていただきます。送料は無料ですが、第三種郵便での発送となります。約1週間でのお届けとなります。土日祝日の配送がありません。また、事前に購入されても発売日にお届けすることは、お約束できません。ご了承ください。

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