全米各地でトップヒールとして活躍したキラー・カーンだが、日本マットでは無冠だったし、アメリカでもフロリダ地区のUSタッグ、ルイジアナ、ミシシッピ、カルガリー地区(スタンピード・レスリング)の各ヘビー級、エリック王国(WCCW)のTVと、意外にも獲得した王座は少ない。逆にいえば、ベルトの価値を超えた存在だった。もちろんそれは“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントの足を折った事件がもたらしたものだ。とはいえ、それだけでトップヒールに押し上げらたわけではない。それにはある理由があった。キラー・カーンが入門した日本プロレス時代の先輩レスラーで、アメリカ遠征中にタッグを組んでいたミスター・ヒトが生前に連載していた専門紙の記事を再掲して、その秘密を探ってみる。(文中敬称略/橋爪哲也) ◇ ◇ ◇
キラー・カーンの顔は、悪役としては最高だったね。顔だけで金が稼げたよ。オレは「ミリオンダラー(100万ドル)の顔」って言ってるんだけどね。
カーンは目が悪いんだよ。(裸眼だと)視力は0.1以下じゃないかな。少し離れるだけでよく見えなくなるから、目を細めて見るんだよ。それがまた、悪党ヅラにピッタリなんだ。あれは持って生まれたものだ。でも、それでもどうすればもっと悪党らしい顔になるか、研究してたなあ……。
あれはフロリダだったかな? 場外乱闘の時、興奮したおばさんが、カーンの背中を叩いたんだ。で、怒ったカーンは振り返って、そのおばさんの顔に自分の顔を近づけて怖い表情を作ったんだよ。さすがに気の強いおばさんでも、あんなに大きな顔が、自分のすぐ目の前で怖い表情をするもんだからビックリしたんだろうな。そのまま泡を吹いて失神したよ。指一本触れずに女性を失神させるんだから、カーンも大したもんだよ(笑)。
まだコンタクトレンズがなかった頃、カーンは相手と離れるとよく見えないから、密着したレスリングを得意としてた。さすがにレスラーは体が大きいから少し離れてもどこにいるかはわかるんだろうけど、細かい動きまでは見えないから手探りでレスリングをしてた。でもフロリダで会った時は、離れて闘うレスリングがうまくなってるんでびっくりしたよ。まあ、コンタクトレンズを入れただけだったんだけどな。カーンからすれば、世の中が変わって見えたんじゃないか(笑)。
でも、コンタクトレンズをよく洗面台に流してしまってたよ。予備のコンタクトレンズを買っておけばいいのに、その頃はまだ高かったしな。今のように使い捨てのもなかったしな。だから片目だけコンタクトをして、もう一方の目は閉じて試合してたよ。まあ、それで怖い表情になるんだけど、片目だから距離感がつかめず失敗もしてた。
6人タッグでカーンと組んだ時、俺がタッチしようとコーナーに戻ったらカーンがいないんだ。場外乱闘してるような試合の流れじゃないし、“どうしたんだ?”って思ってコーナーの下を見たら、カーンが足首を押さえてのたうち回ってんだよ。試合後に、「なにしてたんだ?」って訊いたら、「踏み外してエプロンから落ちた」だって(笑)。
バカなことばっかり言ってるけど、カーンは器用な面もあるんだ。料理させたら天下一品。それも味つけだけじゃなく、包丁さばきからしてうまいんだから。
でも一番器用だったのは、あのダブルニードロップだよ。フォームもきれいだし、ノド元にグシャッと入るだろ。それもトップロープから飛んで決めるんだから。オレもカルガリーで食らったけど、その威力は……それは黙っておこう。
そういえばアンドレ・ザ・ジャイアントの足を折った時も、片方だけコンタクトレンズを入れてたのかな? もしそうなら、世界を驚かせた大失敗だよ(談)。
<プロフィル>
キラー・カーン…本名・小沢正志。1947年3月6日生まれ、新潟県蒲原郡吉田町(現燕市)出身。中学卒業後、大相撲・春日野部屋に入門。63年3月に初土俵。越錦の四股名で最高位は幕下40枚目。1970年に廃業すると、翌1971年1月に日本プロレスに入門。吉村道明の付け人を務め、同年11月20日、桜田一男戦でデビュー。1973年4月、坂口征二に付いて新日本プロレスに移籍。同年12月、第1回カール・ゴッチ杯で準優勝。1976年8月に海外武者修行に出発。一時帰国後の1978年にメキシコに再出発してモンゴル人キャラクターに変身。1979年3月にアメリカに渡り、キラー・カーンを名乗る。1980年末にWWF(現WWE)入り。いきなりニューヨークMSG(マディソン・スクエア・ガーデン)のメインイベントでボブ・バックランドの保持するWWFヘビー級王座に挑戦する。1981年5月、ニューヨーク州ロチェスターでの試合でアンドレ・ザ・ジャイアントの右足をニードロップで骨折させたとして世界的に名が轟く。アンドレ復帰後は全米各地で遺恨試合が繰り広げられた。長州力率いる維新軍に加わり、日米を往復しながら参戦。1985年にはジャパン・プロレスに移籍、日本での戦場を全日本プロレスに移す。長州らの新日プロUターンをアメリカで聞いて戦場をWWFに移すも、1987年11月、当然の引退を表明。その後は、歌手として活動するかたわら、新宿区内でスナック、居酒屋、歌謡居酒屋を経営。2023年12月29日、営業中に動脈破裂を起こして救急搬送されるも帰らぬ人となる。76歳だった。
ミスター・ヒト…本名・安達勝治。1942年4月25日生まれ、大阪市天王寺区出身。出羽の海部屋に入門し、浪速海の四股名で1960年5月場所で初土俵。最高位は幕下17枚目。1967年初場所を4勝4敗で勝ち越して引退。その後、日本プロレスに入門する。日本プロレス崩壊直前に永源遙とともにアメリカに遠征。トーキョー・ジョーのリングネームでカンザス地区をサーキット。カナダに転戦した際、ミスター・ヒトを名乗る。カルガリー地区のプロモーター、スチュ・ハートに気に入られ、コーチ、トレーナーとしての手腕も発揮。同地に定着しながら西ドイツ(当時)、フロリダ、テキサス、日本、東南アジアなどを転戦する。カルガリーでは自宅のベースメントに若手日本人レスラーの住まわせて面倒を見たほか、日本に外国人レスラーを送り込むブッカーの役割も果たした一方、1988年のカルガリー冬季五輪では日本へのテレビ中継にも貢献。カルガリー地区の衰退ともに現役を引退。1990年10月、SWSのレフェリーとして参加したのを機に帰国。旗揚げ間もないPWCや大日本プロレス、レッスル夢ファクトリーでコーチとしてレスラーを育てる。大阪でお好み焼き店を経営していたが糖尿病悪化により2010年4月20日、大阪市内の病院で死去。67歳。同日、大阪府立体育会館第2競技場で行われた新日本プロレスの興行で追悼の10カウントゴングが鳴らされた。
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