close

2024-06-04

【連載 泣き笑いどすこい劇場】第25回「言い分」その1 

正論ではあるが、時に報道陣泣かせでもあった隆の里(写真は昭和55年秋場所)

全ての画像を見る
人の気持ちほど、分かりにくいものはありませんよね。
「なんでこんなことをするの」
と首をひねりたくなる出来事に遭遇したことはありませんか。
でも、それにはそれなりの理由があるもの。
あとで、それが分かり、なるほど、そういうことだったのか、
と合点がいくことがよくあります。
力士たちも、よく予想外の言動をしますが、
それにはそれなりの言い分があってこそ。
そんな言い分にまつわるエピソードです。
※月刊『相撲』平成22年11月号から連載された「泣き笑いどすこい劇場」を一部編集。毎週火曜日に公開します。

笑ってられるか!

昭和55(1970)年九州場所、西の関脇隆の里は2日目に横綱北の湖、5日目大関増位山を破り11勝を挙げ、2場所連続して殊勲賞を獲得した。大活躍だったのだ。ただ、12勝目を目指して臨んだ千秋楽は平幕の朝汐(のち大関朝潮)に敗れている。

当時も現在も、三賞力士はNHKのカメラの前に呼ばれてインタビューを受ける。その模様が両親や親しい人たちがいる遠く離れた出身地にも放送されるとあって、楽しみにしている力士は多い。ところが、最後の相撲で負けた隆の里は、

「負けて、オメオメとインタビューを受ける気にはならない」

と、このインタビューの申し入れをきっぱり断ってしまった。そればかりか、取り囲んだ報道陣の取材にもソッポを。どうして隆の里は故郷の青森にいる母親に嬉しい報告をするチャンスをふいにしたのか。後日、その理由をこう明かしている。

「毎日、命をかけて土俵に上がっているのに、負けた直後、ニコニコしてインタビューなんか、受けていられるか。それができるヤツは力士じゃなく、俳優か、歌手になればいいんだ」

なんとも鋭い発言だ。これほど勝つことに執念を燃やしたから、3年後の58年名古屋場所後、糖尿病という厄介な持病を抱えながらも横綱に昇進できたに違いない。このとき30歳10カ月になっていた。

月刊『相撲』平成24年11月号掲載

PICK UP注目の記事

PICK UP注目の記事



RELATED関連する記事