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2025-07-25

速報で流されたアントニオ猪木失神KOでプロレスの枠を飛び越えて人気爆発! 超人ハルク・ホーガン伝説(1)【週刊プロレス】

ハルク・ホーガン

7月24日(現地時間、以下同じ)、ハルク・ホーガンが心臓発作で亡くなった。71歳。

1979年12月17日、テッド・デビアス相手にニューヨーク、MSG(マディソン・スクエア・ガーデン)デビュー。提携ルートに乗って翌1980年5月、新日本プロレスに初来日を果たした。WWEの提携ルートでSWSへの参戦こそあったものの、それ以外では新日本以外、日本のリングには上がっていない。日本でのラストマッチは2003年1・4東京ドームの蝶野正洋戦。最後の来日は2014年7月12日、大阪・舞洲アリーナのリング上でKENTAのWWE入団を発表した時だった。

アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセン、ビッグバン・ベイダーと並ぶ人気外国人レスラーとして、日本プロレス史に名を刻んでいる。(文中敬称略)


新日本プロレス「第3回MSGシリーズ」の中盤戦からの特別参戦したハルク・ホーガンの日本デビュー戦は、1980年5月13日、山口・宇部市俵田翁記念体育館。永源遙をベアハッグでギブアップさた。その3日後、初のTVマッチ(同月16日、愛知・刈谷市体育館)に登場。ストロング小林をカリフォルニアクラッシュでマットに沈めている。


翌週のTVマッチ(同月23日、宮城・迫町立体育館)では早くもアントニオ猪木との一騎打ち。公式リーグでないにもかかわらずメインで生中継された。ちなみに結果は猪木の反則勝ち。

また、その翌週のTVマッチ(同30日、香川・高松市民文化センター)でも当時のWWFヘビー級王者であるボブ・バックランドとの一騎打ちが放送開始直後にオンエアされたことからも、ホーガンへの期待度の大きさがうかがえる。

同年10月、「闘魂シリーズ」に再来日。11月3日には東京・蔵前国技館で猪木の保持するNWFヘビー級王座に挑戦、同年暮れの「第1回MSGタッグリーグ戦」ではスタン・ハンセンとのコンビでエントリー。優勝決定戦で猪木、バックランド組に敗れたものの準優勝を果たした。

翌1981年は「第4回MSGシリーズ」にエントリー。猪木、ハンセンにリングアウト負けを喫し、坂口征二と両者リングアウトの引き分け、タイガー・ジェット・シンに反則勝ちして、ハンセン、猪木、シンに次ぐ4位の戦績を収めているほか、シリーズ中には(同年6月3日、愛知県体育館)バックランドの保持するWWFヘビー級王座に挑戦して反則負けを喫している。

日本におけるホーガン人気が爆発したのは、猪木とタッグを組み始めてから。1982年の「第5回MSGシリーズ」で決勝に進出しながらも左脚負傷を理由に欠場した猪木は、翌5月の「ビッグファイト・シリーズ」を療養に充てた。そこで手薄になった日本陣営にアブドーラ・ザ・ブッチャー迎撃部隊として助っ人参戦。藤波辰巳(当時)や坂口征二と組むようになり、6月の「サマーファイト・シリーズ第1弾」で復帰した猪木とも組むようになった。

その頃から背中に「サンダー・リップス」(映画「ロッキー3」での役名)、「一番」と染め抜かれた和服スタイルのリングコスチュームを身にまとい、リングに上がると人差し指を立てた右手を高く突き上げて「イチバン!」と叫ぶ。暮れのタッグリーグでは猪木とのコンビで1982年、1983年と2連覇を成し遂げ、人気、実力両面で新日本プロレスを支えた。

1983年6月2日、東京・蔵前国技館でおこなわれた「IWGP決勝リーグ戦」優勝決定戦で猪木を失神KOした事件は、テレビ朝日のニュースでも速報されたほど。これでプロレスファン以外にも名を広めたホーガンの人気はさらに爆発。エアコンのCMにも起用された。

そして1984年からはビンス・マクマホン・ジュニア代表と全米侵攻に打って出た。それは旧態依然としたテリトリー制を崩壊させるとともに、プロレス業界をビッグビジネスに押し上げた。その象徴といえるのがミシガン州デトロイト郊外ポンティアックのシビックドームでおこなわれた「レッスルマニア3」(1987年3月29日)。メインイベントは、ホーガンvsアンドレ・ザ・ジャイアント。新日本マットでは何度もシングル対決がおこなわれてきたが、その集大成ともいえる一戦は、現在もインドア興行の観客動員記録となっている9万3173人を集めた。

橋爪哲也

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