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2025-08-29

ハルク・ホーガンの奥底に宿っていた古き良き日本人気質…最後まで義理立てした新日本参戦【週刊プロレス】

1993年のハルク・ホーガンvs武藤敬司戦

アメリカンプロレスの象徴ともいうべきハルク・ホーガンだが、彼のプロレス人生を振り返ってみると日本とのかかわりが深い。プロレス界への入り口はフロリダ州タンパでヒロ・マツダの下でのトレーニングであり、AWA時代はマサ・サイトーと抗争を繰り広げてきた。そして新日本プロレスではアントニオ猪木からテクニックだけでなく、カリスマ性、スーパースターとしての立ち振る舞いを盗むとともに日本のファンの心をつかむことにつながり、トップ外国人の座に君臨することになった。その根底に育まれたホーガンなりの日本人気質は、WWEでメガスーパースターになっても変わることはなかった。


1985年6月「IWGP&WWFチャンピオンシリーズ」への来日を最後にWWF専属となったホーガン。その後、1990年4月、WWF&全日本&新日本3団体合同興行として開催された「日米レスリングサミット」、WWFとの提携ルートから来日したSWS(1991年3・30東京ドーム&4・1神戸&12・12東京ドーム)のリングには立ったものの、新日本に対する特別な思いは消えることなかった。

1993年には3度、新日本マットに参戦。グレート・ムタとのシングルマッチ(同年5・5福岡ドーム)とタッグマッチ(9・23横浜アリーナ)、武藤敬司とのシングルマッチ(9・26大阪城ホール)をおこなっている。また翌1994年1・4東京ドームにも参戦して、藤波辰爾とシングルマッチを闘った。

まだ完全にWWFを離れてはいなかったが、当時はステロイド問題で矢面に立たされていた時期。AWA時代に抗争を繰り広げたマサ・サイトーからの直接のオファーに応じて特別契約(年4試合、ワンマッチ1万ドル)を結んで実現したものだった。

当時、新日本で外国人選手のブッキングを担当していたサイトーからすれば闘魂三銃士、特に武藤敬司のスター性をさらにアップさせようとの狙いがあった。それを証明するように、1993年の来日では武藤(グレート・ムタ)絡みの試合が組まれている。

WWF仕様の黄色のコスチュームで登場し、試合後には筋肉パフォーマンスを披露したホーガン。WWFでスーパースターに駆け上がって遠い存在となっていたが、心の底では“来日”ではなく“帰郷”だったのだろう。リングに上がると「イチバーン!」と叫び、試合でも日本スタイル、超人流ストロングスタイルを押し通した。

結果的にWWFとの提携時代にSWSに参戦したことはあったが、それ以外は新日本プロレスから離れることはなかった。その義理堅さも日本から学び、自身の大きな財産としていた。

2003年には10・13東京ドームでワンマッチで新日本マットに復帰。蝶野正洋とシングルマッチをおこなったが、当時の新日本は武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシンが全日本プロレスに移籍した翌年。同年の契約更改では中堅クラスが大量離脱するなど、暗黒時代に足を踏み入れた時期。人気回復へのカンフル剤として招へいされたもの。

バックステージでジェフ・ジャレットに襲撃され、当時提携していたTNAと連動してのストーリー展開が期待されたものの実現せず。同大会がレスラーとして最後の来日となった。

ただホーガン自身は日本で引退試合をおこないたい思いもあったのだろうか。2010年の1・4東京ドームに参戦すべく交渉していた。結果的に条件的にまとまらなかったものの、ホーガンが希望していたカードが実現していたならば、プロレス人生30年を迎えたその時点で初となるリック・フレアーとのタッグチームが誕生していたのだが……。

橋爪哲也

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