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2026-05-22

“人間発電所”ブルーノ・サンマルチノがレスラー人生の一変を余儀なくされた悪夢の夜【プロレス史あの日、あの時1976年5月13日/週刊プロレス】

サンマルチノとハンセンのWWWF世界ヘビー級戦を報じた「プロレス」1976年6月号(週刊プロレスmobileプレミアムで配信中)

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1976年5月13日
ビンス・マクマホンがWWWF王者サンマルチノの重傷を公表@ピッツバーグ・プロビデンス・ホスピタル

歴史に名前を残した偉大なレスラーズのキャリアを詳述するとき、例外なく「この負傷を機に全盛時代の勢いが失われ、下り坂を余儀なくされた」というニュアンスの文章を定番のように書いてきた。例えば、日本マット界の歴代エース陣について言うと、力道山は1962年9月14日、スカル・マーフィとムース・ショーラックに場外乱闘で受けた右胸鎖関節亜脱臼の重傷(東京体育館)。ジャイアント馬場は1984年4月25日、ブルーザー・ブロディとスタン・ハンセンに合体パイルドライバーを食って頸椎損傷し、連続試合出場記録を3764でストップさせられたとき(横浜文化体育館)。アントニオ猪木は1982年3月31日、ディック・マードックとダスティ・ローデスの攻撃で両膝に膝蓋骨折のダメージを受け、翌日から8月にかけて短期、長期の欠場を繰り返したとき(名古屋・愛知県体育館)だったと思う。三人共にカムバックはしたが、「それ以前の輝き」を二度と取り戻すことはなかった。

同様の視点でキャリアを俯瞰したとき、アメリカで長期政権を誇った王者の中で最も顕著な例は、1976年4月26日、挑戦者スタン・ハンセンのボディースラム(脳天からキャンバスに落下)で「第6頸部脊椎骨折」という2カ月入院の重傷を負わされたときのWWWFヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノだった。この夜を境に“人間発電所”と呼ばれた爆発的なパワーはピタリと鳴りを潜め、両方の大胸筋に食パンを詰めこんだような見事な肉体美も萎んでしまったが、逆にアクシデントを利用したハンセンは、以降に“首折り男”としてビッグ・ブレイクを果たした。レスラー人生の明暗を分けたという点でも、このアクシデントほど非情なケースはほかに存在しない。サンマルチノにとっては、まさに悪夢のような一戦だった(サンマルチノは出血多量でドクターストップ負けを喫したが、タイトル移動はナシ)。

別掲の新聞は、ハンセン戦の翌日からピッツバーグのプロビデンス・ホスピタルに長期入院していたサンマルチノについて、WWWF(現・WWE)のボスであるビンス・マクマホン(シニア)が記者団に対して病状を報告したときの記事だ。ギブスと顎紐で頭部を固定されたサンマルチノは口からの食事を取れず、2週間も点滴だけの療養を余儀なくされていた。記事の中に、取材したマイク青木氏(当時の東京スポーツ通信員)の報告がある。

「声を掛けても、首を固定されているサンマルチノは首を横に向けられない。口を動かすのもやっとの状態で、私の質問に対してイエス、ノーを言うのが精一杯。『日本のファンに心配をかけたくないので、必ずカムバックすることだけは書いておいてくれ』と小声で答えてくれたが、主治医のボビー・ラビリンス医師によると全治6週間で、リハビリ期間は2カ月だとのこと。カムバックというより、通常の生活に戻れるまで数カ月を要するかもしれない」

結局、サンマルチノはこの取材の4週間後に退院。自宅で毎日軽いトレーニングを消化して6月25日のシェイ・スタジアム決戦(日本から宇宙中継された猪木・アリ戦とダブルメインでハンセンに報復マッチ)に臨んだ。ハンセンが逃亡したためサンマルチノのKO勝ちが宣告されたが、体重が15キロ近く落ちたサンマルチノの首は明らかに細くなっており、プロレスラーにとって「首の筋肉」が何よりも大事だという常識を、改めて認識させられた。

流 智美

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