新日本プロレス50年を振り返る企画として、過去に週刊プロレス本誌、特集号などでおこなった外国人レスラーのインタビューをここに再録する。第1回は“不沈艦”スタン・ハンセン。3回目となる今回はアントニオ猪木との闘いを通じてもたらしたもの。そして、不沈艦の“燃える闘魂観”とは? ※2010年5月、アントニオ猪木50周年を記念して出版された「A・猪木50years~上巻」より。――猪木がこれほどまでに大衆に支持されているのはどうしてだと思いますか?
ハンセン イノキは自分自身をプロモートすることに長けている。それが一番の理由じゃないか。スポーツ選手はリタイアすると忘れられていくものだけど、イノキはそうじゃない。それは本当に驚かされることだ。
――しかも自分だけじゃなく、対戦相手もプロモートします。
ハンセン イエス。私も猪木と闘ったことで、ここまでこれたと思う。イノキに限らず、ニュージャパンのレスラーと闘うことで成長する機会を与えてくれた。そして、それを支持してくれるファンがいた。そうじゃないと日本で25年も闘うことはなかっただろう。
――結果を調べてみると、あなたは猪木に3回しか勝ってません。17回も負けていて……。
ハンセン そうなのかい? 私は勝った1回の試合しか覚えてないけど(笑)。イノキにはなかなか勝てなかったけど、小橋(建太)が私との闘いでアップセットを起こすことで上がっていったように、私もイノキ相手にアップセットを起こすことで成長していった。
――あなたにとって猪木との闘いはどういう意味を持ってましたか?
ハンセン もしあの時、ニュージャパンに行ってなかったら、その後のスタン・ハンセンはなかっただろうし、日本のプロレスリング、日本のファンを愛することもなかっただろう。日本でキャリアを終えることもね。イノキとゆっくり話したことはないが、ニュージャパンのリングに上がり始めた頃の私はまだ未熟だったし、イノキから闘いを通じていろんなことを教えられた。トップとしてオールジャパンに迎え入れられたのも、猪木との闘いがあったこそだしね。
――1990年9月30日には、全日本での試合が控えてるにもかかわらず、猪木のデビュー30周年を祝福するため、ゲストとして横浜アリーナのリングに上がってます。
ハンセン わずか4年しか猪木とは闘ってないのに、ほかのゲストたちと招待されたことはうれしかった。それに、快く送り出してくれたジャイアント・ババにも感謝してる。
――最後に猪木へのメッセージをお願いします。
ハンセン 若さを保つ秘訣と教えてほしい(笑)。WWEのホール・オブ・フェームに迎え入れられたイノキとの闘いが、今でも日本のファンの心にしっかり刻み込まれてるのは私にとっても大きな誇りだ。いつまでも元気でいてほしい。
◇ ◇ ◇
このインタビューを収録したのは、2010年、アリゾナ州フェニックスで開催された「レッスルマニア」を取材した際。猪木がWWEプロレス殿堂の授賞式に出席、ハンセンはインダクションを務めた。
ハンセンにとっては新日本参戦前、1976年以来となるWWE登場。もちろん「レッスルマニア」には初の参加だった。
ハンセン自身は、「もうリタイアしたし、WWEからオファーがあるなんでまったく考えてなかった。しかもアメリカのファンの前で猪木について語るなんてなおさら。日本でイノキ、ババという偉大な2人のレジェンドと闘ってきたことがこういう形で評価されてうれしいし、ホール・オブ・フェームの舞台に立てたことは名誉なこと。猪木が私にくれたビッグなプレゼントだと感じてるよ」と語っていた。
現在のWWEスタイルに関しては、「私はアマチュアに近いスタイルのレスリングが好き。だけど、すべてのものは時とともに変わっていく。それによって業界が大きな成功を収めることになったわけだし、私と猪木がジャパンのスタイル発展させるきっかけになったと思っている。もしスタイルが変わらなかったら、プロレスはインディペンデントのままだっただろう」と評した。
(この項おわり)
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