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2026-05-11

2日間の連続欠場のあと、決勝戦も負傷棄権したブルーザー・ブロディの無念【週刊プロレス】

ドリーvsテリーの兄弟対決を報じた月刊「プロレス」1981年6月号(週刊プロレスmobileプレミアムで配信中)

1981年4月30日
インターナショナルヘビー級選手権試合◎ドリー・ファンクJr vs テリー・ファンク@松戸市運動公園体育館

全日本プロレスが管理する三冠ヘビー級王座のうち、(日本)最古のタイトルは1958年8月に力道山がロサンゼルスでルー・テーズを破って日本に持ち帰ったインターナショナルヘビー級王座だ(当時はシンプルにインターナショナル選手権と呼称)。二番目に古いUNヘビー級王座の日本定着が1971年3月、PWFヘビー級王座の誕生が73年3月だったから、三冠の中ではインターが群を抜いて古い。それだけに歴代王者の数も多く、変遷史も波乱に満ちている。

本稿の1981年4月は、第9代インター王者だった大木金太郎の王座返上(事実上、ジャイアント馬場による王座買収)によって第10代を決定する「インター争覇シリーズ」の決勝の報道記事だが、決勝進出を決めていたドリー・ファンクJrは、絶好調で本番に驀進していた。

4月25日の沼津市民体育館からスタートしたトーナメントには馬場、ジャンボ鶴田、タイガー戸口、D・ファンクJr、テリー・ファンク、ジャック・ブリスコ、ブルーザー・ブロディ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、キラー・ブルックスの9選手がトーナメントにエントリー(ブルックスが急遽割り込んだが、テリーに1回戦で敗北)。2回戦で馬場がテリーに、ドリーが戸口に、ブッチャーが鶴田に、ブロディがブリスコに勝って準決勝に進み、27日の名古屋・愛知県体育館で馬場に勝ったブロディとブッチャーに勝ったドリーの二人が決勝(30日、松戸市運動公園体育館)に歩を進めた。

ところが、馬場との試合でブロディが右足甲の部分を強打する負傷で翌28日の岐阜市民センター大会を欠場。29日の諏訪湖大会前には市内の病院で強い注射を打って急場をしのいだが、腫れが引かなかったために連続欠場を余儀なくされた。ブロディは「3日連続の欠場は自分のプライドが許さない。インターのベルトは絶対に欲しい。腫れが引かないから右のブーツが履けないが、明日はベアフット(裸足)で出場する」と主張したが、歩くことができない状況を鑑みた馬場がブロディを説得し、結局は決勝戦の棄権を了承させている(ドリーが闘わずして新王者に君臨。初防衛戦のクジ引きでテリーが挑戦権を獲得し、急遽、松戸で兄弟対決が実現。ドリーが勝利)。

当時「初防衛は、ブロディが完治まで延期すべきでは?(ブロディが負傷を押して)強行すればベルトの価値を下げる」という記事があった。これは珍しく東京スポーツ新聞社としての見解を述べた形の見出しだったが、あくまで結果論ではあるが、それ(延期)が正解だったような気がする。

結果的に、ドリーとテリーによる「夢の兄弟対決」が実現する最初で最後のチャンスで、それを実現させたことに異論を挟むつもりはない。ただ、それが「ブロディの負傷欠場」の急場しのぎだったことに(「余りにも軽い」、「松戸で開催されるカードではない」との)不満を持った。日本マットで最高権威を誇るインター・シングル王座が「棄権」によって決定したとしても、それは仕方のないことだ。それがルールというものだろう。敢えて松戸で緊急にドリーの初防衛戦をおこなう必要はなく、2回戦で馬場に負けて落伍していたテリーが出てきたことは極めて公平性を欠いた。このあと10月9日(蔵前国技館)にブロディはドリーを破って悲願のベルトを巻く。くどいようだが、「兄弟対決」が蔵前国技館のリングで実現していたほうがマッチ・ベターだったと思う。

流 智美

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