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2020-09-22

【私の“奇跡の一枚” 連載86】空前絶後! ジェット機で天翔けた『異能横綱』

1959(昭和34年)元日は珍しく東京も大雪で、翌2日朝は杉並区阿佐ヶ谷の花籠部屋も雪の中、NHKテレビ中継があって熱気むんむん。なにしろ栃若時代のスター、横綱昇進2年目、5度目の優勝を目指す若乃花幹士を擁するだけに、青梅街道は本場領国をしのぐ勢いがあった。25日の千秋楽も賜盃は阿佐ヶ谷に届いた。

※写真上=ジェット戦闘機に乗り大空狭しと飛び回った“土俵の鬼”若乃花の様子を宮沢氏の同行レポートで伝えた本誌『相撲』のグラビア特集記事(昭和34年3月号)の一部。若乃花の左後方が取材中の筆者)。この重装備の足元が黒足袋に雪駄ばきとは!
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

米空軍挙げて若乃花ファン

 そして2月6日朝、私は同じ大塚窪町にすむ日刊スポーツの中島カメラマンと、タクシーで花籠部屋へ急いだ。早くも米極東空軍コバルトブルーのバスが待機している。横田基地(福生町、現福生市)ジェームス・E・ジョンストン司令官差し回しの車両が列をなしていた。

 基地の将校夫人らはみなが若乃花の熱いファンばかり。そこで同基地挙げてウェルカム・パーティが企画された。事前に横綱をジェット戦闘機に乗せてあげたい」と打診があり、「ああ、いいですよ」となった。

 基地へ着くと将校クラブで若乃花の着替えが始まる。紺色の飛行服に身を固め、パラシュートとライフジャケットも着装した。ヘルメットは白。

 ただし、飛行靴だけは29センチ(12文)の若乃花に合わない。そこで黒足袋、雪駄の異様な和洋折衷が出来上がり。前の操縦席に歴戦のファーサー少佐、後席に若乃花が搭乗して、T33ジェット機は滑走路へと誘導される。ロッキードP80シューティングスター(流)を複座練習機に改造した機体だ。

 一方、同行の師匠・花籠親方(元幕内大ノ海)夫妻と長女五月ちゃん(6歳)、若乃花の長女幸子ちゃん(前日4歳の誕生日)そして若秩父、大海と沢風も羽織袴着用で、別仕立てのダグラス4発25人乗り輸送機に乗り込む。米軍プレスも続々だが、私は相撲協会映画部社長の伊勢寅彦さんの目に留まり「記者1人追加」ということで搭乗と相成った。

『土俵の鬼』が空で“かわいがられ”た!?

 搭乗前に気象情報が若乃花の耳に入れられた。「今は晴れているが、天候次第で名古屋の小牧か、青森の三沢基地に不時着する。今日は横田に帰れないことも」と脅かされた。若乃花さん、次第に表情が厳しくなる。酸素マスクを口にくわえる。「気分が悪くなったら、親指でこれを押せば外れる」とか「万が一事故の際は座席ごと飛び出してパラシュートで降下できる」とも説明されていた。

 若乃花搭乗機は先発し、富士山を目標に東京―伊豆大島―宇治山田経由で帰る。ちょうど富士山上空で若乃花と、幸子さん同乗の輸送機が父娘すれ違いとなる計画だったが、ジェット機の速度が違うので若乃花は先に横田基地着陸。我々輸送機の方は皇居上空を一周し、左翼端に東京タワー、それから赤い電車がウヨウヨしている地下鉄丸ノ内線茗荷谷陸上基地、そして眼下に筆者の母校拓殖大キャンパス→旋回すると上野の不忍池→蔵前国技館、隅田川に両国を抜けて相模湾の先が前年秋に狩野川台風で被災した伊豆半島の基部が見えた。

 先に降りて着替えていた若乃花の感想は「陸地が真横に走ったかと思うと、海が頭の上。三原山の噴火口へ急降下されたときは気分が変」と正直な感想。

 それにしても相撲協会がよく許可したな、と思う。今だったら不許可だろう。日米親善優先という時代でもあった。今からちょうど60年前の出来事だった。

語り部=宮沢正幸(元日刊スポーツ。東京相撲記者倶楽部会友)

月刊『相撲』平成31年2月号掲載 

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