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2020-09-08

【私の“奇跡の一枚” 連載84】 夢か現か―― 38年前優勝パレード車に同乗していた私

我が出羽海部屋の御嶽海が平成30(2018)年名古屋場所で初優勝を果たし、私たち部屋の親方衆も、その栄誉のおこぼれを、誉れの弟弟子を囲んで記念写真に納まるという形でいただいた。

※写真上=あのとき横綱にうながされて恐る恐るのぼっていたオープンカー!!(右で緊張しまくっているのが私)
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

東京の部屋にも大賜盃を

 明治の“角聖”常陸山以来大錦、栃木山、常ノ花、武蔵山、安藝ノ海、千代の山、佐田の山、三重ノ海と横綱を輩出し、名門の名をほしいままにしていた出羽海部屋だが、このところずっと優勝からも遠ざかっていた。

 そう、我が部屋に優勝旗がやってきたのは、私の現役時代にさかのぼる。

 昭和55(1980)年初場所、北の湖・輪島・2代目若乃花と4横綱で競っていた名人三重ノ海関が前九州場所に引き続き初の連覇を果たした。しかも見事な全勝優勝。あのときウチの横綱の左四つの相撲の型は相撲の神様が乗り移ったようで、その強さ、充実ぶりは、間違いなく角界の頂点にあったと思う。

 後輩である私たちも当然大興奮。地元両国のお客さんも、43年初場所の佐田の山以来12年ぶりの東京場所優勝とあって大喜び。パレードの際、紋付袴姿で横綱に付き添う我々関取衆(鷲羽山、出羽の花、佐田の海、大錦)も、もみくちゃになった覚えがある。

 実をいうと、この、大騒ぎで大変だったという印象だけはあるのだが、それ以上の細かい記憶は、これまでほとんどなかった。

 ところが、さる秋場所、NHKの大相撲中継に、停年で退職する山科親方(元小結大錦)が向正面にゲストとして招かれた際だった。先の名古屋場所で後輩御嶽海が果たした初優勝が、出羽海部屋50回目の栄冠にあたるとして、常陸山以来の歴史が映像で細かく紹介されたのである。そこではなんと、ウチの横綱を挟んでパレードのオープンカーに、旗手の鷲羽山関とこの私が乗っていたではないか。

 はあ、そうだったんだ――。

 この写真を目にした途端、わたしの胸は大いに熱くなった。あの時、私は記憶がすっ飛ぶほどの興奮にかりたてられていたのだ――。

伝統猛稽古の刺激を

 小兵の体ながら病気と闘い、一度は大関から落ちるという試練をも乗り越えて横綱に上り詰め、さらには連続優勝を果たした三重ノ海関を、オレは今、目の当たりにしているんだ、という興奮がそうさせたに違いない。

 それにつけても思い出されるのは、あのころの出羽海一門の稽古場の活気と殺気!?である。

 春日野理事長(元横綱栃錦)をはじめ、出羽海(元横綱佐田の山)、中立(元横綱栃ノ海)、三保ケ関(元大関先代増位山)等々錚々たる親方衆が見守る中、横綱北の湖、三重ノ海以下一門の関取衆が勢ぞろいして汗を流した場所前の連合稽古の厳しさ、激しさと言ったらなかった。北の湖関や三重ノ海関の怖かったこと。私は何度吹っ飛ばされ、張り倒されたことか。あの雰囲気を身をもって味わえたことは私の至上の経験である。

 あれから三十有余年、新時代の逸材御嶽海は、師匠出羽海親方(元幕内小城ノ花)以下年齢の近い、理解ある親方衆のリードよろしきを得て、現代的教育環境で、ごく順調な歩みを続けてきた。もうひとつ上に向けては、我々が当然のように通ってきた、あの稽古場の環境を、雰囲気を一瞬でも味わってもらえたら、俄然彼の前途も大きく広がって来ると思う……。

語り部=出来山双一(元関脇出羽の花)

月刊『相撲』平成30年12月号掲載 

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