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2026-06-05

日本マット界の革命児・佐山のデビュー戦から50年【プロレス史あの日、あの時1976年5月28日/週刊プロレス】

佐山のデビュー戦や猪木との特訓などを報じた当時のスポーツ紙

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1976年5月28日
18歳・佐山サトルがデビュー◎魁勝司vs佐山サトル@後楽園ホール

ベースボール・マガジン社から拙著「初代タイガーマスク戦記」が発売される。私にとっては「猪木戦記」、「馬場戦記」に続く「戦記シリーズ」の第3弾だが、今回は初のオールカラーで構成されており、文章と秘蔵グラフで従来にない味を御賞味いただけると確信している。是非、ご一読いただきたい。

別掲した新聞記事(4種)は、1976年5月28日の佐山聡(18歳=当時のリングネームは佐山サトル)デビュー戦(右上)、翌77年8月にアントニオ猪木のトレーニング・パートナーとして抜擢されたときの練習風景(右中)、さらに同月19日に「格闘技第戦争(11・14)」に、キックボクシングのヘビー級日本人代表として出場決定したときの記事(左)、そして1978年6月1日にメキシコ長期遠征(海外武者修行)に出たとき(最下段)のものだ(同じ便で出発した木村健吾はロサンゼルスへ)。デビューから丸2年で海外に出されるというのは、当時としては異例の速さであり、この出発から3年後、1981年4月にタイガーマスクとして凱旋帰国してきたので、佐山はデビューから僅か5年でプロレスラーの頂点を極めたことになる。天才といわれた佐山の「非凡な資質」を凝縮しているような新聞記事アーカイブだが、デビューから50年が経ったことに感慨を新(あらた)にする次第だ。

猪木の左顔面にハイキックを叩き込んでいる写真は、上野毛の新日本プロレス道場で撮影されたものだ。8月2日に日本武道館でザ・モンスターマン(プロ空手スーパーヘビー級王者)と対戦することが決まっていた猪木は、シリーズ後半を欠場して道場に籠り、佐山をパートナーにしてミドルキック、ハイキックの研究に専念した。文中に「佐山は目白ジムでキックボクシングの修行も積んでおり、仮想モンスターマンとして練習するには最適」とあるが、猪木も「佐山のおかげで、モンスターマンをキャッチするタイミングを掴んだ。あいつを肩から投げて脱臼させてしまって悪いことをしたが、それでも大丈夫と食い下がってきたガッツには脱帽だよ」と素直に誉め言葉を送っている。この努力が認められた佐山は3カ月後(11月14日)に日本武道館でおこなわれた「格闘技大戦争(キックボクシングと全米プロ空手の全面対決)」にヘビー級日本代表として出場したが、惜しくもマーク・コステロに判定負けして無念の涙。この敗戦で「プロレスラーなのに、キックボクサーに負けるなんてダラシがない」という声も飛んだが、佐山はここからもキックの練習をやめることなく技術を磨いていったのだから頭が下がる。2年間のメキシコ時代を経てイギリスに転戦し、ブルース・リーばりのカンフー殺法を用いて「サミー・リー」として大ブームを起こしたのも、全てはキックボクシング練習を継続していた賜物だった。「不断の努力」という言葉がこれほど該当する例もあるまい。

タイガーマスクとして日本に凱旋帰国を果たしたのは1981年4月23日(蔵前国技館=相手はダイナマイト・キッド)だったが、この一戦をテレビ画面で最初から最後まで見たあとに、佐山が「動きとしては、サミー・リー時代のことを繰り返していただけですね」とコメントしたことがある(2008年7月のDVD撮影時)。隣にいた私は慌てて「ということは、既にサミー・リーの段階でタイガーマスクは完成していた、ということですか?」と確認したが、佐山はアッサリと「そうです。タイガーマスクは、サミー・リーが覆面を被っただけです」と答えたので仰天した。それは私の中に「タイガーマスクは、サミー・リーの進化形です」という回答を期待していた気持ちがあったからなのだが、おそらく佐山の中では「進化形」という概念もフレーズも存在しない。前述したように「不断の努力」こそが、生涯を格闘技に捧げてきた佐山聡の全てであり、それはデビューから50年を迎えた現在でも変わることがない。

流 智美

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