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2020-06-12

【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・貴ノ花利彰編 カミさんのために、そしてこの子らのためにも――[その4]

人生の“階段”は、キチンと等間隔に設定されているとは限らない。貴ノ花にとって、この昭和45(1970)年後半から46年にかけてのおおよそ半年間は、それまでも、そのあとも体験したことのないような密度の濃い時間だった。

※写真上=昭和45年秋場所の番付発表で新小結となり、師匠であり兄の二子山親方が祝福
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】史上最年少で入幕を果たしたものの、わずか3場所で十両に転落し、再び幕内に復帰するのに4場所もかかった。再入幕しても大勝ちと大負けを繰り返し、周囲のイライラはつのっていく。しかし強硬手段で憲子夫人を入籍した昭和45年秋場所、横綱大鵬から白星を挙げるなど初の殊勲賞を獲得。入籍は吉と出た――

実力を認められ兄の援護で挙げた華燭の典

 実は、この憲子夫人をこっそり入籍した秋場所14日目、二人が正式に“結婚”していることがマスコミに漏れてしまったのだ。

 このとき、二子山親方(元横綱初代若乃花)がどういう態度をとったか、人気力士の突然の結婚に驚いて押し掛けた報道陣に対して、

「二人のことはいずれ認めてやるつもりでいたけど、なんといっても弟はまだ20歳になったばかり。もう少し成長してからでいい、と思っていた。ワシの考えでは、2年後の22歳になったときが適当だ」

 と語った言葉によく表れている。そのときとても、許すつもりはなかったのだ。

 ところが、二子山親方はそのわずか1週間後の10月1日には自ら走り回って二人の婚約発表を演出し、さらにその月の23日には、都内・東中野の「日本閣」で、東京ガスの安西浩社長を媒酌人にして結婚式まで挙げさせた。

 いったい二子山親方の心に、何が起こったのか。

 この結婚式のとき、二子山親方は、

「まだ、年齢的に早いような気もするが、秋場所の相撲を見ると、弟の実力もついてきたようだし、世間に(入籍したことが)知れた以上、早くスッキリさせたほうがいいと思ったんだ」

 と話している。

 しかし、本当の理由は、すでにこのとき、憲子夫人が妊娠6カ月だったからに違いない。若い二人のこの思い切った“実力行使”の前には、誰も反対できなかったのだ。(続)

PROFILE
貴ノ花利彰◎本名・花田満。昭和25年2月19日、青森県弘前市出身。二子山部屋。182cm106kg。昭和40年夏場所、本名の花田で初土俵。43年春場所新十両、同年九州場所新入幕。44年夏場所、貴ノ花に改名。47年秋場所後、大関昇進。幕内通算70場所、578勝406敗58休。優勝2回、殊勲賞3回、敢闘賞2回、技能賞4回。56年初場所に引退し、年寄鳴戸を襲名。同年12月、藤島へ名跡変更、57年2月、藤島部屋を創設、横綱貴乃花、若乃花、大関貴ノ浪、関脇安芸乃島、貴闘力らを育てた。平成5年、二子山と名跡交換、16年2月、二男貴乃花に部屋を譲った。平成17年5月30日没、55歳。

『VANVAN相撲界』平成4年9月号掲載

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