我が九重部屋には、かつて床修という名人床山がいた。もともと高砂部屋所属だったが、私の師匠、元横綱千代の山の九重親方が出羽海部屋から独立したのを機に、移籍して来てくれたのだ。
写真上=なにげないスナップだが、この『一枚』には、私なりのエピソードが詰まっている
写真:月刊相撲
長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。
優秀な床山は、マゲを結うばかりでなく、生活の密着度から、力士の体調から心理面まで、コンサルタント的な役割も果たす。修さんの長年の経験と人間的洒脱さには私も救われることしばしばだった。
さて、問題の写真は私の現役時代、昭和47(1972)年名古屋場所の宿舎における朝の風呂上がりのスナップである。私の頭頂を見てほしい。マゲが三段重ね?に結ばれ、何とも奇妙な形になっている。ふつうは二つ折りにして結ぶところ、その先端をさらに強く折り返して結んである。結ってくれたのはもちろん修さんだ。
なぜ、こんなマゲを結うことになったかというと、それは当時の私が、ひとり横綱として追い詰められていた環境と関係がなくはない。
46年10月最大のライバルだった玉の海君が急逝したこともあって、翌47年に入ると、急速に体調不良が私を襲い、自分でも気の抜けたような相撲ぶりを披露することが多くなっていた。
初場所途中休場、春場所9勝6敗、夏場所は中盤戦に早々と途中休場の始末。不甲斐ない私はまさに引退の危機に陥っていた。土俵は当然戦国乱世状態。
名古屋に入っても、私の不調は続いていた。このまま出場しても、ファンの皆さんに喜んでいただける相撲は、悔しいが絶対に取れない。そこで私は横綱の名誉を懸けて、自分をギリギリの窮地に追い込むことにした。そのため名古屋場所を思い切って全休し、秋の復活に懸けたのだ。
ジェシー高見山が初の外国人優勝を果たす土俵を、愛知県体育館が一望できるホテルでテレビ観戦しながら、私は後日を期する日々を送った。
そしてある日、昔、何気なく聞いた変わりマゲの話を思い出した。
とことん追い詰められていたこともあって、私に、なにか気分を変えたいという気持ちが働いたのだろう。そんな話を修さんにしたところ、「ああ、そのマゲなら、オレも知ってるよ」。「じゃあ、オレにもちょっと結ってみてよ」「ようがす」。そんな二人だけの会話からこんな頭が出来上がったわけだが、その日、宿舎に来ていた報道陣で、誰もこの変わった“異変”に気がつく人はいなかった。この髪型は、もちろんこの日、このとき1回きり……。
私は場所が進むうちに、精神的にも迷いから覚めるように開き直っていった。そして場所後の夏巡業、死に物狂いで稽古した。名古屋の屈辱が体調ばかりでなく、精神的にも私をずっとたくましくさせてくれたのだ。
秋場所に出場した私は、いよいよ育ってきた貴ノ花と輪島が華々しく大関レースを展開するなか、15戦全勝で9度目の優勝を果たして戦国場所を収拾、我ながら見事復活することができたのだった。
膨大な資料の中からこの写真を見つけ、私に説明を求めたS記者が、遠慮がちにこう持ちかけてきた。「親方はこの髪を結った後、折り返しも見事な復活を遂げられました……」
分かった、皆まで言うな。「奇跡のV字回復マゲ」と言わせたいわけね。半世紀近くも経てば話はそんなことになるのかな。それもまた今は亡き修さんへの供養かも。
なにはともあれ、ゲン直しの後は、お後がよろしいようで。
語り部=北の富士勝昭(元横綱北の富士。NHK解説者)
月刊『相撲』平成29年11月号掲載
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