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2020-05-29

【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・貴ノ花利彰編 カミさんのために、そしてこの子らのためにも――[その2]

昭和42(1967)年夏の札幌巡業のとき、当時17歳だった貴ノ花は、おもしろ半分にこっそりタバコを吸っているところを、兄弟子の二子岳に見つかったことがある。

※写真上=昭和43年春場所新十両、同年九州場所新入幕と、いずれも18歳の若さで昇進した
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】「メキシコ五輪の星」と呼ばれ、水泳選手として活躍した中学時代。だが卒業と同時に兄である元横綱初代若乃花の二子山部屋に入門、マスコミの注視を浴びる。そこで待ち受けていたのは、兄弟子たちによる激しいシゴキだった――

「若乃花の弟」というレッテルを背負って

 力士にとって、タバコは、稽古をやっていてもすぐ息が切れるし、体はなかなか太らないし、まさに百害あって一利なし。小さな体で数々の記録を更新し、大相撲界で初の「国民栄誉賞」をもらった千代の富士(現九重親方)が低迷して平幕から横綱に駆け上がる直前、この貴ノ花に、

「お前はいつまでもこのへんでウロウロしているような力士じゃない。上に上がりたかったら、タバコをやめろ」

 とアドバイスされ、キッパリと禁煙したのは有名な話だ。

 その貴ノ花はとうとう引退するまでタバコと縁が切れなかったが、このときも二子岳に猛烈に怒られ、罰として翌日の稽古で、二子岳の親友の陸奥嵐と二人がかりで徹底的にかわいがられ、とうとう動けなくなると、中島公園の中を流れている小川にポイと投げ込まれてしまった。

 しかし、こんなシゴキはやられる理由がハッキリしているだけに、やられても納得がいくし、場合によってはかえってうれしい。

 どうしても我慢できないのは、理由も何もない兄弟子たちのやっかみによる陰湿ないやがらせや、意地悪だった。

「オイ、お前は、兄貴が師匠なんだから、カネを持っているだろう。あとでオレに缶詰をもってこい。そしたら、かわいがりを免除してやる」

 と、あるとき、貴ノ花は自分の体の二倍はある兄弟子たちに脅されたことがある。

 物と引き換えに、稽古に手心を加えてもらうというのは、プライドのある男のとるべき道ではない。そんなときの貴ノ花は兄弟子たちの要求を完全に無視し、むしろ喜んでシゴカれるほうを選んだ。

 こんな兄弟子たちの理不尽さや、周囲が勝手に貼り付けた、

「あの若乃花の弟」

 というレッテルに対する憤りやプレッシャーが、若い貴ノ花のスピード出世のエネルギーだった。昭和40年名古屋場所、序ノ口西15枚目でデビューすると、17場所連続負け越し知らずで、3年後の43年春場所、当時の史上最年少記録のわずか18歳で十両に昇進。その5場所後には、18歳8カ月という若さで入幕も果たした。

 しかし、このころになると、こころはもう戦いに疲れてクタクタ。そんな精神的に行き詰まっていたとき、貴ノ花はまるで雨上がりの若葉のようにすさんだ心が生き返る思いがする一人の女性と巡り合った。当時、映画女優をしていた3つ年上の憲子夫人である。(続)

PROFILE
貴ノ花利彰◎本名・花田満。昭和25年2月19日、青森県弘前市出身。二子山部屋。182cm106kg。昭和40年夏場所、本名の花田で初土俵。43年春場所新十両、同年九州場所新入幕。44年夏場所、貴ノ花に改名。47年秋場所後、大関昇進。幕内通算70場所、578勝406敗58休。優勝2回、殊勲賞3回、敢闘賞2回、技能賞4回。56年初場所に引退し、年寄鳴戸を襲名。同年12月、藤島へ名跡変更、57年2月、藤島部屋を創設、横綱貴乃花、若乃花、大関貴ノ浪、関脇安芸乃島、貴闘力らを育てた。平成5年、二子山と名跡交換、16年2月、二男貴乃花に部屋を譲った。平成17年5月30日没、55歳。

『VANVAN相撲界』平成4年9月号掲載

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