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2020-05-15

【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・大麒麟将能編 相撲は理屈じゃないんだ――不完全燃焼の残り火[その5]

大関の座をつかんだとき、すでに大麒麟は28歳。もう一つ上の横綱昇進をにらむと、“大関取り”に計算外の時間を費やしてしまっていた。現役としての残り時間はもうわずか。このことが、また大麒麟を焦らせた。

※写真上=昭和45年秋場所後、28歳で大関昇進を果たした
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】入門してまもなく、むさぼるように本を読み始め、十両に上がるとますます読書量は増え、「大相撲界一の読書家」という称号が定着。読書を通じて身に付けた論理的なものの考え方は本職の相撲にも反映するようになったが、上位に上がるに連れ理屈と現実の狭間に苦しめられるようになる――

ここ一番の勝負弱さに綱取りのチャンス遠のく

 ――うかうかしてはいられないぞ。早いことチャンスを作って上がらないと、時間切れになる。

 大麒麟は、大関に昇進すると頭の中のあらゆるチャンネルを“綱取り”に切り替えた。横綱になるには、横綱審議委員会の内規で、2場所連続して優勝かそれに準ずる成績を挙げたものとなっている。目標はまず優勝だ。このとき兄弟子の大鵬の優勝回数は31。北の富士も玉の海も、琴櫻も清國も、すでに賜盃を抱いている。

 ――オレだって、優勝できないワケはない。

 必ずチャンスは巡ってくると信じて疑わなかった。しかし、いつまで経っても来ないのだ。いや、何回か、近くまで来ることは来たのだが、その度につかみ損ねたと言ったほうが正しい。

 大麒麟の大関在位は25場所に及ぶ。その間の初日の成績は8勝16敗1休。千秋楽は10勝10敗4休(最後の場所は千秋楽前に引退したため、記録なし)。スタートとゴールの成績でも分かるように、初日、大事に取りすぎて逆に取りこぼすことが多く、中盤、懸命に追い上げるものの、千秋楽に息切れを起こす。その繰り返しだったのだ。

「自分が相撲を理屈で割り切ろうとしていたとき、オイ、相撲ってのはそういうもんじゃないよ、と言ってくれる人がいたら、その後の力士生活はだいぶ違ったものになっていたと思います。もっとも、それに気付いたのは大分後のことですが、自分が横綱に上がれなかったのは、とにかくここ一番に弱すぎたのがすべて。だから今、勝ち越しが懸かった相撲とか、大事な一番を迎えた弟子たちには、こう言って送り出すんです。勝ちたい、勝ちたいと思って勝てたら苦労しないよ。余計なことは考えず、自分のあるだけの力を出してこい。結果は自ずとついてくるんだから、と」

 綱取りの夢破れ、昭和49(1974)年九州場所の3日目に引退を表明した大麒麟改め押尾川親方はしみじみ話す。

 ――一生懸命やったつもりだけど、振り返ってみると何か忘れ物をしたような気がする。この居心地の悪さはいったい何だろう――。50年5月31日の引退相撲のとき、大麒麟は、マゲにハサミを入れられながら考え続けていた。それが、大相撲界始まって以来の読書家力士が頭で相撲を取ろうとして、完全燃焼できなかった体の残り火だったことに思い当たったのは、それからしばらく経ってからのことだった。(終。次回からは大関・貴ノ花利彰編です)

PROFILE
大麒麟将能◎本名・堤将能。昭和17年6月20日、佐賀県佐賀市出身。二所ノ関部屋。182cm140kg。昭和33年夏場所、本名の堤で初土俵。37年名古屋場所新十両、麒麟児に改名。38年秋場所新入幕。45年夏場所、大麒麟に改名。同年秋場所後、大関昇進。幕内通算58場所、473勝337敗49休。殊勲賞5回、技能賞4回。49年九州場所に引退し、年寄押尾川を襲名。50年、押尾川部屋を創設、関脇青葉城、益荒雄らを育てた。平成17年部屋を閉じ、18年6月退職。22年8月4日没、68歳。

『VANVAN相撲界』平成7年5月号掲載

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