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2020-04-14

【私の“奇跡の一枚” 連載65】 横審“総見”稽古一般大公開まで

夏場所を前に、平成29(2017)年も5月3日「横綱審議会委員総見」の稽古が国技館アリーナの本土俵で行われ、1階のほぼ全席が埋まる熱気の中、一般に公開された(一時は年3回一般公開された時期もあったが、現在は夏場所前のみ)

※写真上=“総見”を終えた春日野部屋から出てきた興奮冷めやらぬ横審委員たち。左後方は春日野理事長(元横綱栃錦)。右はNHK北出清五郎アナウンサー(昭和52年。総見稽古マスコミ公開を始めたころ)。『総見』という言葉をこのイベント取材で初めて覚えた記者も多かった
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

ゴールデンWに大公開

 この、両国新国技館に横綱・大関以下全関取衆が白廻しで集結して行われる豪華な連合稽古が初めて一般に公開されたのは平成12年4月30日のこと。

 平成12年といえば第2次時津風内閣発足の年。番付面では曙・貴乃花・若乃花・武蔵丸の4横綱から、春場所若乃花が引退して抜け、また貴ノ浪・千代大海・出島の大関陣に新大関武双山、雅山、魁皇が次々と加わるという、群雄割拠の情勢のころであった。

 さらなるサービス向上を意図した協会は、横審発足50周年という節目も意識して、墨田区が立案したばかりのゴールデンウィークの両国周辺のイベント企画(現在の名称は『両国にぎわい祭り』)に合わせ、それまで国技館の教習所で行われていた“横審総見”稽古の場所をアリーナの本土俵に移し、一般公開に踏み切ったのだった。

 看板力士同士による豪華な稽古が直接見られる! しかもこの企画に連動して、初日前日の厳かな土俵祭りも公開されることになった。さらに無料ということになったからたまらない。国技館には長蛇の列ができた。以来“総見”は協会の大イベントとなった。

春日野理事長の大号令

 若い方は『総見』という言葉を、この「横審総見」というニュースから知った人が多いのではなかろうか。「総見」とは『芝居・相撲などを後援団体や関係者がうちそろって見ること。総見物』(明鏡国語辞典)をいう。九州博多場所の時など、アナウンサー諸氏が「博多芸者衆の総見です」とズラリと枡席に顔をそろえた粋な芸者姿の着物姿を映像とともにうれしそうに紹介していることで、耳にされていたかもしれないが。

「公開」ということでは、昭和25(1950)年に発足した横綱審議委員会は、あくまで協会の諮問組織で、その活動は、横綱誕生問題に直面した場面を除いて、ほとんど非公開であった。規則に一応定められている東京場所前の稽古視察活動も、横綱のいる部屋か、特定の協会幹部のいる部屋に限られ、どちらかというと横審委員の先生方への個人的な感謝サービスのおもむきでしかなかった。

 それを、横審を一般ファンの代表と考え、併せてマスコミにも関取衆の場所前の調整具合を披露し、理事長自らの目でも確かめつつ力士を督励し、場所への期待を高める行事にしたいと考えたのが、春日野理事長(元横綱栃錦)だった。理事長になって3年目の昭和52年4月27日、自部屋で行われる連合稽古(出羽海一門)に合わせ、号令をかけて阿佐ヶ谷方面からも横綱大関を両国に呼び寄せ、横審委員の前で稽古を披露させたのだ。

 そんな豪華な顔ぶれによる稽古取材の機会を与えられたマスコミも勇んで飛びつき、一般ファンに稽古の模様を大々的に生き生きと伝えることとなったのだった。

 当時の上位陣は両国側が横綱北の湖、大関三重ノ海、旭國、阿佐ケ谷側が横綱輪島、大関貴ノ花、若三杉、魁傑。人気力士が大集合! 両国の町がいっそう明るくなった印象だった。

 そして春日野部屋での“総見”がしばらく続いたが、二子山理事長(元横綱初代若乃花)就任後、大勢の関取衆が阿佐ケ谷方面にいくのは大変だということで、会場を蔵前国技館の教習所の稽古土俵に移して行われてきたのだった。

語り部=下家義久(『相撲』元編集長)

月刊『相撲』平成29年4月号掲載

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