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2019-12-10

【私の“奇跡の一枚” 連載46】 真の大横綱・双葉山を想う ――勝っても負けても泰然自若――

最近相撲人気が復活して満員札止めが続いているが、長年の相撲ファンとしてはまことにうれしい限りである。

※写真上=微塵の興奮も気負いも見せず控えに座る双葉山。まさに「木鶏」を思わせた
写真:月刊相撲

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 

相撲観戦初土俵は小1時

 最近相撲人気が復活して満員札止めが続いているが、長年の相撲ファンとしてはまことにうれしい限りである。

 私は現在84歳であるが、相撲観戦の初土俵は76年前の昭和14年春場所(当時1月)、小学1年の時だった。

 当時も相撲人気は盛んで満員御礼が続いていたが、それは双葉山に対する一点集中人気といってもよかった。

 この場所は、双葉山の69連勝が4日目の安藝ノ海戦で止まった歴史的な場所ということになるが、私が観戦したのはその初日で、67連勝目の五ツ嶋戦だった。

 以来19年春場所まで毎場所、双葉山の土俵を間近に見ることができた。子どもがなぜそんな人もうらやむいい席で? これには理由があり、私の母方の祖父が鹿島建設の当時の副社長兼営業部長だったことによる。鹿島組は旧両国国技館の向正面(当時は裏正面と言っていた)の中央前から2列目に接待用の桟敷をもっており、お得意の接待に使っていたが、客のないときには私を入れてくれたのだ。そのため、私は小学生の分際でありながら毎場所特等席で相撲を見ることができたわけである。

すべての面で品格力量抜群

 双葉山の土俵をナマで見た人はもう非常に少なくなっていると思うので、私なりに感じたことを伝えておきたいと思う。

 私も子どものこととて、初めのころは、双葉山の素晴らしさがよく分からなかったが、高学年になると段々とその偉大さが分かるようになった。花道の奥に双葉山が姿を見せると、それまでざわついていた場内の空気が一瞬ピーンと引き締まる。拍手に迎えられて花道を通り、控えにピタッと座り、チラッと今日の相手の顔を見た後は、半眼を閉じて微動だにしない。

 当時(昭和16年夏場所まで)の仕切り制限時間は10分だったから、土俵上で仕切っている力士の残り時間が7分くらいだとすると、自分の前の力士が10分、取組時間が2番で1分として、控えに入ってから土俵に上がるまでは計算上18分前後あるわけだが、その間ほとんど動きはない。

 土俵に上がると、水、化粧紙は最初の1回だけ。あとは時間いっぱいまで淡々と仕切り線と柱(当時)の間を往復する。

 しかし相手が時間前に立つといつでも受けて立ち、待ったは絶対しない。遅れて立ったようでも、組み合ってみるといつの間にか右四つ左上手の盤石の体勢になっている。

 最強の横綱には勝ち方にも配慮があって、格下の平幕相手だと、上手投げでコケそうになった相手を抱き起してそっと出したりもする。これは出羽錦が双葉山と親しかった神東山から直に聞いたとしてテレビ放送中に披露してくれた話だ。もちろん相手が土俵を割って力を抜いているのにダメを押して突き飛ばすようなことは金輪際ない。

 私は相撲場で双葉山が負けた場面を見たことはなかったが、祖父の話だと負けた時も立派で、顔色一つ変えず、だれが負けたんだという平静な態度で静かに花道を去ったという。

 このような大横綱はもう出ないのだろうか。いやぜひ出てほしいものである。

語り部=佐竹義惇(昭和6年生まれ。相撲研究家。著書に『戦後新入幕力士物語』1~5巻〔小社刊〕。秋田藩・佐竹氏の末裔)

月刊『相撲』平成27年10月号掲載

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