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2019-11-08

【連載 名力士たちの『開眼』】 関脇・玉ノ富士茂編 “天敵”倒しに必死工夫の“撒き餌”作戦――[その2]

「この野郎、今ごろひょっこり現れやがって。こっちに来い。一体今までどこをほっつき歩いていやがったんだ」

※写真=再デビューした昭和46年初場所の序ノ口に続き、翌春場所は序二段で優勝を飾る
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】小さいころから運動神経抜群で、17歳で片男波部屋に入門。師匠の片男波親方はその素質に惚れ込み、玉ノ富士という四股名を与えた。序ノ口で6勝1敗と大勝ちし、上々の滑り出しを見せたが、千秋楽の夜、名古屋の宿舎から突然姿を消す――

自衛隊経由で角界復帰

 3年の間にすっかり大人びた顔をまぶしそうに見つめる師匠に、玉ノ富士は無断で姿を消したことを素直に詫び、1年間、自宅に舞い戻って無為に過ごした後、翌年の7月、いつまでもこんなだらしない生活をやっていてはだめになる、自分がどこまで我慢してやれるか、思い切って試してみようと思って、全国の陸上自衛隊の中でも厳冬期演習のきつさでは定評のある北海道の帯広駐屯地に入隊したことなどを正直に話した。

「この2年間の自衛隊生活をキチンと務め上げられるようだと、オレもまだ見込みがある。そう思ったんです。でも、親方、世の中の仕組みというのは、どこも一緒ですね。自衛隊でも、防衛大学校や、体育大学を出たばかりの若いヤツラが、下からたたき上げてきた者の上にポンと来るんですよ。やっぱりこの世は、頭で生きるか、体を動かして生きるしかない。入隊していた間に、そのようなことをつくづく思い知らされました。今度は絶対、途中で腰を割るような真似はしません。どうか、もう一度、オレを弟子にしてください。お願いします。出戻りに風当たりが強いのも、覚悟してやってきました」

 かつてこの片男波親方も、憲兵をぶん殴って相撲界を破門され、激戦地を転々とした挙げ句、9年後の27歳のときに許されて復帰した、という異色の経歴の持ち主だったことも、玉ノ富士にとっては、ある意味でラッキーだった。

「よし、分かった。余計なことは言わん。お前がこの3年間でどのくらい生まれ変わったか。オレによく見せてみろ」

 こうして師匠の一声で玉ノ富士の復帰が決定。昭和45(1970)年秋場所、玉ノ富士は再び新弟子検査からやり直すことになった。このとき、すでに20歳。3年前に比べると、体重は100キロと13キロ増えていたが、どういうわけか、身長は184センチで、1センチ低くなっている。もしかすると、この2年間の厳しい自衛隊暮らしで、本当に身を削り取られたのかもしれない。

天狗の鼻をへし折られた十両での再戦

 再デビューした玉ノ富士の足取りは、この自ら課した試練の成果を見せ付けるように、軽やかそのもの。九州、翌年の初と、序ノ口、序二段をいずれも優勝で通過し、序ノ口から4場所目の夏場所にはもう幕下にたどり着いている。まさに目を見張るような超スピードだった。そして、20場所目の49年初場所には、待望の十両昇進を……。

 その十両2場所目の春場所14日目のことだった。玉ノ富士は、土俵の向こう側から上がって来る対戦相手を見て、体中がカーッと熱くなるのを禁じ得なかった。脱走する前、1場所だけ序ノ口で相撲を取った42年名古屋場所の二番相撲で快勝している旧同期生の藤沢、いや、その後改名した琴乃富士(最高位幕内、佐渡ケ嶽)だったのだ。

 ――あのときは丸っきり子どもだったのに。オレがちょっといない間に、こんなところまで来てやがる。よし、どのくらい強くなっているか、一丁、試してやるか。

 6日前の大錦(元小結)戦で右肩を強打して、3日ほど途中休場し、決して体調は万全ではなかったが、玉ノ富士の心に、こんな不遜な思いがむくむくと頭をもたげた。ここまで壁知らずでトントン拍子に駆け上がってきたために、無意識のうちに天狗になっていたのである。

 ところが、結果は余りにも無残だった。琴乃富士に右四つに組み止められ、左の上手をグイと引き付けられると、まるで大地に根が生えたようにビクとも動かないのだ。

「アレッ、おかしいな。どうなっちゃったんだ」

 と一人で焦っている間に寄って来られ、気が付いたときはもう両足とも土俵の外だった。

 惨敗である。それも、言い訳のしようがないぐらい力の差をまざまざと見せ付けられて。土俵を下りる玉ノ富士は、恥ずかしさで顔が真っ赤になっているのが自分でもよく分かった。

「あんなヤツに負けるはずがない、と思っていただけに、あのときは大ショックだったなあ。オレがいない間、みんな、コツコツとやっていたんですよ。それを知らないで、ほら、すぐ追い付いたじゃないか、といい気になっていた自分の浅はかさを見せ付けられた気がして。それからですよ、これじゃいかん、フンドシを締め直さないと、と改めて気合を入れ直したのは。あのとき、琴乃富士は、同期のよしみで、いい気になってるんじゃないよ、と自分に教えてくれたんですよ、きっと」

 と、片男波親方(当時、元関脇玉ノ富士)が感謝する。こうして玉ノ富士は、唇を血がにじむほど噛み締めたのと引き換えに、力士として、というよりも、人間としての階段を一歩這い上がったのだ。もっとも、そのことに気付いたのは、随分と後になってからだったが――。(続)

PROFILE
玉ノ富士茂◎本名・阿久津→大野茂。昭和24年11月24日、栃木県那須郡那珂川町出身。片男波部屋。185cm127kg。昭和42年夏場所、阿久津の四股名で初土俵。翌名古屋場所、玉ノ冨士に改名。48年九州場所新十両。49年秋場所新入幕。50年九州場所、玉ノ富士。最高位関脇。幕内通算41場所、289勝326敗。殊勲賞1回、敢闘賞2回。56年九州場所に引退し、年寄湊川を襲名。62年10月、片男波に名跡交換し、部屋を継承。関脇玉春日、玉乃島、前頭玉海力、玉力道らを育てる。平成22年2月に玉春日に部屋を譲り、楯山として部屋付き親方に。31年4月に退職。

『VANVAN相撲界』平成6年5月号掲載

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