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2019-11-01

【連載 名力士たちの『開眼』】 関脇・玉ノ富士茂編 “天敵”倒しに必死工夫の“撒き餌”作戦――[その1]

「おい、帰るぞ。早くしろっ」

※写真上=怪力を生かした割り出しを得意とした玉ノ富士
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

序ノ口で大勝ちしたその足で、無断脱走

 とがった口調で付け人を急がせ、玉ノ富士(初土俵のときの四股名は本名の阿久津。翌場所、玉ノ冨士と改名、のち玉ノ富士)は、逃げるように支度部屋を飛び出した。

 会場の外は、3月も下旬になり、すっかり暖かさを増した春の午後の光に満ちあふれている。まださっき負けた悔しさが心の底に重く淀んでいる玉ノ富士は、余りの明るさに一瞬立ち止まり。周囲の背の高い建物で変形に区切られている空を見上げた。

 ――なんて陽気だい。あの空を見ろよ。なんの屈託もなく、広々としていやがって。そういえば、確か、あのときもこうやって空を見上げ、それから出ていったんだっけ。

 手の遅い付け人はまだしばらく来そうもない。何もかも眠ってしまいそうな穏やかな光の中にたたずんでいるうちに、いつしか心の中にいらだちも収まってきた玉ノ富士の胸に、突然、7年前の光景が広がってきた。

 ――この世で成功するには、頭を働かすか、体を生かすか、の二つに一つなんだ。オレは勉強が嫌いだから、体を生かすことを考えないと……。

 玉ノ富士がこんな17歳の少年にしてはしたたか過ぎる人生訓にとりつかれ、片男波部屋に入門する決意を固めたのは、東京の武蔵野市境にある関東聖徳学園高2年の1学期に入って間もなくのことだった。

 小さいときから運動神経が抜群で、高校に進学しても、1年のときからバスケット部のレギュラー。そのまま黙って卒業すると、日大に進むルートが設定されていたが、玉ノ富士の体内に脈打っている若い血は、とてもそんな規定路線では我慢できないぐらい熱かったのだ。

 初土俵は昭和42(1977)年夏場所。入門したときの身長が185センチ、体重87キロ。このよくバランスのとれた体を一目見た片男波親方(元関脇玉乃海)がいかに惚れ込んだか。玉ノ富士がこの初土俵で一番出世を決めた直後、いつか、部屋の米びつになるような新弟子が現れたら付けてやろう、と長い間、自分の現役時代の四股名の「玉乃海」から一字取り、それに、日本一という意味の「富士」をつけた「玉ノ富士」という取っておきの四股名を即座に与えたことでもよく分かる。

 この師匠の眼力のすごさを裏付けるように、次の名古屋場所、番付の序ノ口西18枚目に初めて四股名が載った玉ノ富士は、相撲はまったくの未経験なのに、いきなり5連勝し、6勝1敗と大勝ちしている。上々の滑り出しだった。

 ところが、この千秋楽の後、突然、玉ノ富士の姿が名古屋の宿舎から消えた。だれにも内緒で逃げ出してしまったのだ。それから5場所、片男波親方は、この“金の卵”がいつ帰ってきてもいいように、部屋の人別帳に四股名を載せ、首を長くして待っていたが、ついに現れず、翌年の夏場所、やむなく協会に「廃業届」を提出した。

 好スタートを切った玉ノ富士に一体何があったのか。

「一言で言うと、自分はこういう組織の中ではやっていけない、ということが分かったんですよ」

 引退して6年後の、62年10月3日、先代の急死で「片男波」を襲名し、自分の育った部屋を継承した元関脇玉ノ富士の片男波親方は、こう無断脱走した理由を打ち明けるが、この“組織アレルギー”の裏に、有望であればあるほど新弟子たちが悩まされる兄弟子たちのやっかみや、イジメが隠されていることは容易に想像できる。

 それからちょうど3年後の45年夏、片男波親方は、急に目の前に現れ、ペコリと頭を下げた青年の顔を見て思わず、

「オオッ」

 と驚きの声を上げた。入門早々、まるで神隠しにでもあったように、突然、かき消えた玉ノ富士だった(続)。

PROFILE
玉ノ富士茂◎本名・阿久津→大野茂。昭和24年11月24日、栃木県那須郡那珂川町出身。片男波部屋。185cm127kg。昭和42年夏場所、本名の阿久津で初土俵。翌名古屋場所、玉ノ冨士に改名。45年秋場所、再入門。48年九州場所新十両。49年秋場所新入幕。50年九州場所、玉ノ富士。最高位関脇。幕内通算41場所、289勝326敗。殊勲賞1回、敢闘賞2回。56年九州場所に引退し、年寄湊川を襲名。62年10月、片男波に名跡交換し、部屋を継承。関脇玉春日、玉乃島、前頭玉海力、玉力道らを育てる。平成22年2月に玉春日に部屋を譲り、楯山として部屋付き親方に。31年4月に退職。

『VANVAN相撲界』平成6年5月号掲載

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