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2019-09-27

【連載 名力士たちの『開眼』】 関脇・出羽の花義貴編 あの幕下落ちの屈辱があったればこそ……――[その2]

こんなふうに、会心の相撲を取ることで自信をふくらませ、階段を上がっていく「陽」の力士もいれば、地面にたたき付けられ、血を吐く思いをすることによって自分を叱咤し、だんだん脱皮していく「陰」の力士もいる。この出羽の花は、典型的な「陰」タイプの力士だった。

※写真上=幕下付け出しで負け越したが、その後は勝ち越しを続けた出羽の花
写真:月刊相撲

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】日大在学中の大学選手権で、高校時代からのライバル・舛田を破り学生横綱を獲得しプロ入り。しかし、幕下付け出しで初土俵を踏んだ昭和49年春場所は、3勝4敗と負け越し、早くもプロの洗礼を浴びる――

一歩後退、二歩前進

 その証拠に、初土俵でつまずき、次の夏場所、三段目東11枚目まで後退する、という屈辱を味わった出羽の花だったが、その後は負け越し知らず。1年後の50年夏場所には早くも十両入りしている。トントン拍子の舛田山に、たった2場所、遅れただけの昇格だった。

 しかし、この7場所後、出羽の花のやる気をくじく不幸が襲った。昭和51(1976)年夏場所、出羽の花は、西6枚目で心身の歯車を狂わし、3勝12敗と大敗、1年余りも守ってきた十両の座から滑り落ちてしまったのだ。

 この、十両から幕下に落ちる、というのは、初土俵のときに経験した幕下から三段目に転落するのとまったく訳が違う。十両は一人前の力士として扱われ、協会から月給は出るし、付け人も付き、協会のさまざまな雑用からも解放される。十両からの転落は、それらの特権がすべてはく奪され、また元の灰色の下積み生活に戻ることを意味するのだ。

 一度関取の蜜の味を知った者にとって、この幕下落ちは、体にはもちろんのこと、心にもズシリとこたえる。

「オイ、たまには飯でも食おうじゃないか。ちょっと出てこい」

 と従兄弟の小山内さんから呼び出しがかかったのは、出羽の花がこのつらい思いをして2場所目、ここで勝ち越せば十両返り咲きが確実、という東の幕下筆頭で、惜しくも3勝4敗と負け越した秋場所千秋楽の、数日後のことだった。

 下町の空は爽やかな初秋の光があふれ、浮き浮きとした陽気に満ちていた。部屋のすぐ近くを流れる隅田川を行き来する舟の船頭たちの声高な話し声も、夏の盛りに比べると別人のように精気に満ちている。

 しかし、出羽の花は、何をやるにも億劫だった。また、重度の自信喪失症にかかっていたのだ。

 ――入門して2年半、今ごろ、幕下に落ち、なかなか上がれないというのは、よっぽど力士としての能力がない証拠だ。まだ25歳だから、十分やり直しがきく。このままズルズルと力士をやっていくよりも、この際、思い切って見切りをつけて、他の世界で生きる道を探した方がいいんじゃないか。

 浅草にある寿司屋で小山内さんと落ち合った出羽の花は、酒の力を借りて、この胸の奥に取り付き、悪性の腫瘍のようにだんだん勢いを増して来つつある悩みや、絶望感を打ち明けた。それは、相談する、というよりも、ぶちまける、という表現がぴったりの話し方だった。

「このところお前の様子がちょっとおかしい、と部屋の連中が言うので、心配してたんだけど、そんなことを考えていたのか。よし、分かった。やめたけりゃやめろ。でも、お前は、本当に持っている力を全部土俵に出し切っているのかい。オレの目には、まだどこかに出していないものがあるように映るけど、そうじゃないのかい。さっき、お前は、入門してもう2年半経ったのに、と言ったけど、オレに言わすと、まだたった2年半だ。やるだけやって、どうしてもダメ、というのなら、オレにもお前の面倒はちゃんと見ようじゃないか。でも、その前に、余計なことは考えず持ってる力を全部出し切ってみろ。廃業するかどうか、というのは、それからだって遅くはない。いいなっ」

 言われてみると確かにそのとおりだった。オレは自分に甘えている。元学生横綱というプライドにこだわって、まだ本当の素っ裸になってやっちゃいない。

 それから何時間経っただろうか。すっかり胸に溜まっていたモヤモヤを吐き出し、寿司屋の暖簾をかきわけて外に出てみると、頭の上には、東京で珍しい澄んだ星空がいっぱいに広がっていた。

 ――ここでやめると、オレは一生、負け犬だもんな。もう一度、何もかも投げ捨てて一からやり直してみるか。

 出羽の花は、酒に酔って霞がかかったような頭の奥でボンヤリとそう考えていた。

 こうして、土俵への情熱を取り戻した出羽の花の再ダッシュが始まった。浅草の寿司屋で小山内さんと飲んで4場所後の52年夏場所、5場所ぶりに十両に復帰し、その場所、いきなり11勝4敗で十両優勝。その十両も3場所で卒業し、その年の九州場所では待望の入幕も果たしたのである。

 そして、それから引退するまで10年ちょっと、63場所もずっと幕内に。

「あの十両から幕下に落ちたときのつらさは、忘れようと思っても忘れられるものじゃありません。ああいう思いだけはもう二度としたくない。そう思って、ちょっとでも気が緩んだり調子が落ちたりすると、あのときのことを思い出し、頑張らないとまた下に落ちるぞ、と自分に鞭打ったんです。そういう意味で、自分にとってあの幕下落ちは大きな財産。今では、あのとき一度幕下に落ちて苦労したから、現在の自分があるんだ、と思っています」

 出来山親方(元関脇出羽の花)はしみじみと語る。

 一度転び、嫌というほど痛さを味わった子どもは、黙っていてもしっかりした足の運びを覚える。一歩後退、二歩前進、出羽の花も、下に転落する度に、二歩前進するための何かをつかみ、這い上がってきたのである。(続) 

PROFILE
出羽の花義貴◎本名・野村双一。昭和26年5月13日、青森県北津軽郡中泊町出身。出羽海部屋。186cm122kg。昭和49年春場所、野村で幕下60枚目格付出。50年夏場所新十両、出羽の花に改名。52年九州場所新入幕。最高位関脇。幕内通算62場所、441勝483敗6休。殊勲賞1回、敢闘賞5回、技能賞4回。63年初場所に引退し、年寄出来山を襲名。出羽海部屋付きの親方として後進の指導に当たる。

『VANVAN相撲界』平成6年3月号掲載

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