7・26後楽園ホールで岡谷英樹が保持するDDT EXTREME王座へ挑戦する石田有輝。「自分を変える」という動機のもと、自身の髪の毛を賭ける「ベルト・コントラ・カベジェラ」ルールに臨む。いずれもプロレスにおいてはありがちなテーマ、形式であるがゆえに、そこは本人の真意を聞かなければ本当の意味は伝わらないと思い、語ってもらった。それは、ハリマオという大きすぎる存在との別れによって訪れたプロレスラー・石田有輝の根源的なテーマでもあった。(聞き手・鈴木健.txt)
キャリアのほとんどをユニットの
ために動いてきた自分を変える闘い
――石田選手はデビューして4年9ヵ月のキャリアを重ねてきました。プロレスラーになる前やなった頃に思い描いた理想と比べてどうでしょうか。
石田 僕はデビューして8、9ヵ月ぐらいでハリマオに入ったので、ユニットとしてリングに上がる感覚の方がずっとあって。何かをやろうと思う時も、チームとしてこうしたいという考えの方が個人でやることよりも強かったんです。実際、これまで個人の実績としてはほとんど何も残せていないと思うんですけど。
――ベルト戴冠経験はKO-D6人タッグと10人タッグで、シングルのタイトルはまだ巻いていません。
石田 ずっとそういう意識でプロレスを続けてきた中でハリマオが解散して、これからは個人として動いていかなければならなくなった。それはもう、今までとは違った姿勢でプロレスと向き合わなければならないことですから。今回、DDT EXTREME王座に挑戦するにあたり僕は現状や自分を変えたいって言ったわけですけど、5年近くになるキャリアのほとんどをユニットのために動いてきた自分そのものを変えるという意味なんです。そんな中で、2回目になるEXTREME挑戦のチャンスをつかむことができた。今のDDTでシングルのタイトルに挑戦できるチャンスはなかなかめぐってこないですから、これを逃したらいつ自分を変えるきっかけをつかめるのかとなってしまう。今の時点では、自分自身がどう変わっていくのか、あるいはどう変わるべきなのかというのは正直、見えていません。だからこそ、ベルトを持てばそれによって自分の方向性が見えてくるはずだと思って名乗りをあげたんです。
――確かに石田選手は、相撲のカラーを打ち出してはいるもののシングルプレイヤーとしての色はまだ明確に打ち出せてはいないですよね。
石田 それほど、ユニットの中の一人というイメージが強いんだと思います。実際、ハリマオってほかと比べてもユニット感が強く出ていたと僕は思っていて、それが僕にとってはありがたかったというか、ハリマオの人間だからこそ存在感を出せていたと思うんです。でも今はそれがないわけで、樋口和貞さんの引退によってユニットが解散してもう3ヵ月が経っているのに、いまだにちょっと引きずっている部分があるのが正直なところなんです。ほかのユニットを見ていて羨ましいというか、自分はもうチームとして何かをやっていく立場にはないんだなって…かといって、その中に入れほしいとも思わない。そこはハリマオじゃないわけですから。
――プロレスラーになる前に描いていたシングルプレイヤーとしての理想像のようなものはなかったんですか。
石田 ありましたけど、そこはなってみなければわからない部分が多くて、ハッキリ言って思い描いていたものと今はかけ離れています。うまくそちらの方向に持っていこうとしても自分、器用な人間じゃないんで。思い描いているレスラー像は理想であって、現実とは違うなというのがやってみてわかったことでした。本当は、もっと器用にやりたかったんですけどね…たとえば、ファイトスタイルだけでなくマイクを持たせたらスラスラ言葉にできるようなのも理想として持ってはいたんです。それが、確かKO-D6人タッグのベルトを獲った時が初めてリング上でマイクを使って話した時だったと思うんですけど、いざやったら「俺、なんも喋れねえじゃん!」と思ったんです。なんていうか、いいことを言えないというか、なんのひねりもないことを言っているだけで。
――いやいや、ひねりなくストレートの方がいいじゃないですか。
石田 それでもよかったんでしょうけど、自分の理想とはかけ離れていたんで。それで、やる前に想像していたのと実際にやるのとでは違うんだ、そっちは届かないから自分はこういう感じでやろうというように、思い描いていたレスラー像とは違う自分を進んでいったんです。
――それって、具体的に「〇〇選手のようになりたい」という対象はいたんですか。
石田 僕、CIMAさんがマジ好きだったんです。CIMAさんって、試合はすごいし器用だし、喋りもすごいですよね。プロレスラーになる前は、やはり自分が好きな選手のようになりたいって思うものじゃないですか。でも僕は不器用なので、そうじゃない自分を築いていった方がいいって早い段階で思いました。そこに関しては、ハリマオとしてやれたことで違う方向性は持てたと思います。でも今は、それをもっとハッキリと確立させる段階ですから。僕の場合、ただでさえ一度ヘルニアで長く休んでいるし、大阪の方へいっていたこともあって(相撲特化型芸能事務所に2024年5月~8月所属)その分、周りよりも遅れてしまった。ケガは仕方ないけど、大阪に拠点を移した時点では自分自身がわかっていなかった面があって、あそこで費やした時間を思うといかなければよかったって思うところもあるのが正直なところなんです。まあ、知らない世界や社会を知ったのは無駄ではなかったですけど、その間に同世代のみんなはリングの上で活躍していましたから。だからそこは、ほかの人とは違う経験をした上で、スロースターターになってもいいから地道にやっていくしかないなって思っています。器用じゃないから、たぶんそれこそが一番の近道なんですよね。
――考えていたこととは違う経験を、大阪でしたと。
石田 たぶん、3ヵ月で退所して帰ってきた僕を見て「なんだ、もう帰ってきたのかよ」って思った人もいたんでしょうけど、それをうまく説明できなかったんですよね。それほど自分にとっては大きなことで、今でも大阪大会でいくたびに思い出すほどのトラウマなんですけど、でもそれほどの体験をしたことでこれ以上のネガティブな状況はないんだからって考えられるんで、バネにはできていると思います。
――自分を変えることと、遅れている分を一気に埋めるためのタイトル挑戦。
石田 はい。遅れている人間なんだから今の僕はなんの実績もないわけじゃないですか。だったら、それに代わるものを差し出さなければ実現できない。そこで考えたのが、髪の毛を賭けることだったんです。今の自分には、これしか賭けられるものはないなって。
髪を失ったら気合や意気込みを
表す術がなくなってしまう
――言わば5年かけて育ててきたものですよね。
石田 そこまでしてでも、岡谷さんを振り向かせたかったというのもあるし…なんていうんですかね、岡谷さんって僕にとっては従兄のような位置づけなんです。というのは、やっぱり岡谷さんの中にも樋口さんがいるわけじゃないですか。同じユニットになったことはないけど、その点で同じスピリットを持った人だと僕は思っているんです。遠いところにいるけれど、実は精神的には近いところにいるんじゃないかなって。今はDAMNATION T.A.として悪くなっちゃっていますけど、樋口さんから受け継いだスピリットを忘れてはいないはずなんです。だって、調印式でも「小細工なしでやってやる」って言ったじゃないですか。
――その言葉を額面通りに受け止めていいものかどうかというのはありますが。
石田 あれを聞いて「そういうことを言うんだ!」って思ったんです。僕は勝手に、この闘いに関して同じように受け取っているんじゃないかって。バッチバチな試合をやるという点で、岡谷さんは理解しているだろうと。
――今回、ルール自体は通常のものでおこなわれますが、EXTREMEならではの奇抜なルールよりもこの方がよかったですか。
石田 何か特別なルールでやるっていうんであれば飲んでいましたけど、岡谷さんが通常ルールというんであれば、望むところなので。バチバチに殴り合って、最後にどっちが立っているかという試合だったら通常ルールの方ができると思います。
――岡谷選手は1年先輩にあたるわけですが、DAMNATION入りする前は直接指導を受けたり、アドバイスをもらっていたりはしていたんですか。
石田 デビューする前は一緒に練習をやっていましたけど、岡谷さんって言葉で何かを伝えようとするタイプではないじゃないですか。やっぱり高知の男は語らないんだなって思いました。日大で相撲をやっていた頃、岡谷さんと同じ土佐清水出身の子がいて同じ感じだったんです。土佐清水、僕もいったことがあるんですよ。中学の時、全国大会の前の日に岡谷さんの高校で稽古をしたんです。
――そんな接点があったとは。では、岡谷英樹がチャンピオンだからという動機もあるんですね。
石田 あります。それはこっちが勝手に縁を感じての一方的な思い入れなんでしょうけど、だからこそ応えてほしいなと思います。
――DAMNATIONのやり方で来たら…。
石田 すかされたらされたで、別にいいです。やってしまえば僕も勝つことしか考えないでしょうから。そもそも、こっちが髪を賭けるといったのに岡谷さんは賭けない時点で、すかされた!って思いましたけど。
――これ、負けたら丸坊主になるということですよね。
石田 そうです。
――人生において坊主経験は?
石田 高校の時は丸刈りだったので18歳が最後ですね。大学では角刈りでした。今は違うと思いますけど、当時の日本大学相撲部は角刈りにしないといけないというのがあったんで。小中学生の時も、基本は短かったです。だから、坊主になるのが恥ずかしいとか、そういうリスクはないわけです。辱めよりも、髪そのものがなくなってしまう方が僕にとっては大リスクなんです。
――先ほどハリマオをまだ引きずっていると言われたじゃないですか。その思いを詳しくお聞かせください。
石田 樋口さんはデビュー戦の相手である以前に、入門した時からずっとお世話になった方ですよね。その樋口さんが「自分が引退することでハリマオは解散」と言われたことに関しては納得した上で終わったわけですけど、その一方で自分の思いとしてはもっとやりたかったという部分も正直、残ったんです。ハリマオとして、DDTの中でもっともっと上がっていきたかった…それは、後悔ではないんですけど。
――その気持ちは樋口さんに伝えたんですか。
石田 いや、言えなかったです。
――樋口さんなら、そういう情熱をぶつければ受け入れてくれたかもしれません。
石田 でも、僕は言えなかったですね。引退発表されるよりも前から首の検査のことも聞いていたし、その上で引退すると聞いた時はどう言ったらいいかわらなかったですから、何も言えずに樋口さんの意思を受け入れるしかなかった。なんですかね…僕は、樋口さんの意思が一番だっていう部分でしたね。樋口さんって、こうと決めたらそれをやる方じゃないですか。なのに僕がいらんことを言って、それが変わるというのは違うなって思ったんです。樋口さんが決めた形として僕も最後までやる。ハリマオのラストマッチは、そういう気持ちで臨みました。あの試合、僕が勝俣さんから獲って終わったじゃないですか。最後…終わらせたくなったんですよね。
――自分がスリーカウントを獲った瞬間、樋口和貞のプロレスラー人生が終わるわけですから、重かったでしょう。
石田 あの試合は吉村さんも中津さんも、相手の勝俣さん、梅田さん、岩崎さん全員がそうだったんだと思います。でもあの時、僕は樋口さんからのパワーをもらったので。それによって勝って終わりじゃなく、もらったものを受け継いで、勝手に背負っていくと決めたんです。樋口さんはどう思っているかわからないけど。
――いや、背負ってもらえるのは喜ぶと思います。
石田 だとしたら…嬉しいです。
――樋口和貞の引退によって、プロレスを続けたくても続けられないという現実を目の当たりにしたわけじゃないですか。それによって、プロレスに対する向き合い方は変わりましたか。
石田 はい、当たり前だと思っていることも、当り前じゃないんだって初めて感じさせていただきました。樋口さんと同じように、自覚症状がないままケガが見つかることが自分もないとは言えない。デビューした時点で、リングに上がることに対してはある程度の覚悟はしましたけど、上がりたくても上がれないことに対する思いを近くで見ることでより一試合一試合を後悔なくやろうって思うようになったんです。HARASHIMAさんや秋山さんのように先輩で何十年も続けられている方々がいらっしゃるじゃないですか。それって実は奇跡的なことなんだなって。自分がその奇跡を起こせるかどうかはわからないんですけど、全試合全力でやることを忘れずにいる…それを樋口さんから学ばせていただきました。
――二十代でその思いを強く持てたのは大きな意義があると思います。
石田 そう思います。あの時点では、樋口さんがリングを去ることは寂しさと悲しさしかなかったんですけど、時間が経過する中で自分なりに考えて導き出せた姿勢ですよね。すべて全力でやるということはすべてと向き合うことですから、僕は今回のタイトルマッチで自分を変えるというテーマとちゃんと向き合います。
――ベルトを獲ったら樋口さんへ見せにいきますか。
石田 いきます! 見せたいです。
樋口さんが果たせなかった両国
結びの一番という夢を自分が
――KO-D無差別級でもなく、DDT UNIVERSALでもなく、EXTREMEを狙うことに関しての位置づけは?
石田 前回のTo-yさんと今回の岡谷さんは世代的にも近い存在であり、超えたい存在でもあるので挑戦したいってなったと思うんです。特に岡谷英樹という存在は、自分が変わるために乗り越えなければいけないんですよ。その岡谷さんが持っているのがEXTREMEだというだけで、今の時点ではこのベルトを持つことでこういうことをやりたい、こういうチャンピオン像を築きたいとうところまで考えはいっていないです。
――では、EXTREMEチャンピオンになったらこういうルールでやってみたいというのも、今時点では描かれていない?
石田 そこは持ってから考えます。今は、獲ったあとのことを考える余裕はないし、言える立場でもない。
――平田選手や勝俣選手のように、EXTREME王者になることで自分の個性をより具現化できた選手もいます。
石田 そうですよね。だからこそ、獲ったら確実に自分自身の世界が広がるし、それによって変わることができると思っています。
――まあ、獲ったら石田選手のことですから相撲に特化したルールを考案するのではないかと。
石田 そうします。相撲ベースに関しては今後、僕がどう変わろうとも変わりようがない部分ですから。
――時系列的にはプロレスと相撲、どっちが先に入ってきたんですか。
石田 厳密にはプロレスになります。細かい記憶はないんですけど3歳の頃、見にいった写真が残っているんです。ウチの親父がすごいプロレスファンで、八代から熊本市内にあった水前寺の体育館(熊本市体育館)まで家族で新日本プロレスを見にいったらしくて。家には父親が買ってきた週刊プロレスが置いてあったので、それを見ていました。直接言われたことがないんですけど、たぶん親父は僕をプロレスラーにしたかったんだと今にして思うんです。
――それで小学1年から相撲をやらされたわけですか。
石田 それは僕が「学校なんかいきたくないよ!」って泣いているような子だったからです。心の弱い子じゃダメだと、親父の同級生の人がやっている地元の相撲クラブにぶち込まれて、最初は嫌々やらされていました。テレビで見てもいなかったからジーパンの上にまわしを巻いて泣きながらやっていましたし。ポケモンが好きな子で、プロレスもそこまで理解はしていないんですけど、それでも見ると熱くはなっていましたね。八代までは大きな団体はあまり来なかったんで、FTOを見にいったこともありました。
――大分のローカル団体、FTOを小学生の段階で見ていたというのはすごいですよ。
石田 アステカさんが好きでした。
――“九州の有名人”として高名な。でも、それほど好きじゃなかった相撲をなぜ大学まで続けたんですか。
石田 なんでですかね…僕、小学1年の4月から相撲を始めて、10月には両国国技館でやっているんですよ。これは自分ではなくクラブチームの先輩たちがすごかったんですけど、全国大会の団体戦って一チームで4年生、5年生、6年生、中学生2人みたいな構成になるんです。でも、4年生がいないから小学1年の自分が入れられて出場して、4年生と対戦するという。1年と4年って、体の大きさが全然違うんで、そこでも大泣きしました。
――へぇー、両国国技館歴に関しては長かったんですね。
石田 まったくいい思い出ではないんですけどね。だからずっとやりたくないまま続けさせられたんですけど、変わったのは中学に入って少しずつ勝てるようになってきてからでした。小学校の頃はわんぱく相撲に出ては負けだったから、その頃は野球やラグビーの方が楽しく感じていたんです。週末に稽古があるとしたら、午前中は相撲で午後から野球やラグビーをやっていました。だから本当は、高校に入ったらラグビーをやりたかったんですよ。一応、中3で初めて相撲の全国大会に出られてベスト16までいったんですけど、自分的にはそんなに納得もしていなかったし、あとタイミング的にラグビーは2019年に日本でワールドカップが開催されることが決まっていたから、4年後…高校でラグビーを始めて日本代表に選ばれたら大学でワールドカップに出られるって夢を描いたんです。でも、本当に進学するギリギリの段階で鳥取城北高校の監督・石浦外喜義先生が八代に来て「軽量級で世界を狙ってみないか?」と言っていただいて。この先生についていけばいけるかもって思ったんです。
――鳥取の名門校の監督が、なぜ八代の生徒のことを知っていたんでしょう。
石田 それは毎年、鳥取で「桜杯」(鳥取県倉吉市出身の横綱・琴桜を顕彰する大会)があって、そこに参加していたからです。地方から選手が集まって、合宿みたいなこともやるんですけど、そこで見られていたようなんです。僕は別に強いと思っていなかったら、なんで声をかけてくれたんだろう?だったんですけど。
――ちゃんと素質を見抜いてくださったんですね。
石田 いやー、そこまでの自信はなかったんですよね。でも、城北にいくと決めたらやるしかないっていう感じになって、相撲を好きになれたのはそこでの3年間でした。それまでは、相撲について考えなかったんですよ。どうやったら勝てるとか、相撲とは何かとか毎日の中で頭を相撲に向けることがないままただやっていたんですけど、やっぱり高校に入ったら厳しい環境だからそれだけに集中できるので、ずっと相撲のことしか考えられなくなったんです。それと同じ頃に、プロレスの方も自分の中にグッと入ってきた。当時はケータイを持つことも禁止されていたんですけど、そうなると本を読むことぐらいしかなくて。さっき、僕はCIMAさんが好きだったって言ったじゃないですか。それは中学の頃にGAORAに入っていて、そこでDRAGONGATEの中継を見て知ったからなんですけど、高校に入ったことで見られなくなった。それで週プロを毎週買うようになってプロレスの情報を雑誌で集めるようになったんです。相撲部ってプロレスファンが多かったからみんなで回し読みをして感想を言い合って。石浦先生もプロレスが好きだったので年に1度、鳥取産業体育館に新日本プロレスが来ると部員を連れて見にいっていました。
――その時点でプロレスラーになりたいと思っていたんですか。
石田 いえ、それは大学4年の就職時ですね。当時はコロナの緊急事態宣言中で、稽古をするのも接触してはいけないという状況でずっと寮にいたんです。暇すぎて、YouTubeでプロレスの動画を漁りまくっていたんですけど、その中で小橋建太さんと佐々木健介さんの試合を見たんです。おそらく過去にも見ていたと思うんですけど、コロナによって何もできない時期に見たことで改めてパワーをもらったって思えたんです。そこから、何かにチャレンジしたいとなってプロレスラーになるという考えが芽生え始めて、今しかできないことだからってすぐに動いた中で、たまたまDNAの曲を作っていた宗本康兵さんと知り合いだったので当時、DNAのプロデューサーをされていた佐々木敦規さんにもつないでいただく中でDDTのテストを受けさせていただいたんです。
――それまでDDTは見ていたんですか。
石田 これが気まずいことにほとんど引っかかっていなかったんです。週プロに載っているのを見ていたぐらいで、入門テストを受けるとなってからメッチャ見るようにしました。
――当然、男色ディーノやスーパー・ササダンゴ・マシン、アントーニオ本多といったプロレスラーたちがいる団体という認識は持っていたんですよね。
石田 面白い人たちがいるんだなぐらいの認識でした。俺、その中に入って大丈夫かな?とは思いましたけど。
――大学を卒業して角界に入ることは考えなかったんですか。
石田 声はかけていただいたんですけど、相撲は大学で終わりっていうのが自分の中にあったんです。これ以上続けても自分はちょっと難しいだろうなと思っていたので。プロはやっぱりプロですからね。じゃあ別のプロの道をいこうと思って、それがプロレスだった感じです。
――日大相撲部に4年間いただけでもすごいですよ。時期的に「日大タックル事件」の頃ですよね。
石田 そうです。僕が2年の時ですね。あの時はすごかったです。寮まで記者の人がいっぱい押しかけて「ちょっといいですか?」って声をかけられるんですよ。でも当然、僕らは何も話すなと言われていたのでスルーしたり。
――うわー、そういうことを実体験していたんですね。
石田 当時はそういう環境が普通でしたけど、今思うとかなり特殊なところにいたんだなって思います。それもあってだと思うんですけど、DDTはすぐに馴染めました。いわゆる体育会系の文化でずっと育ってきたことを考えると、今はまったく違うわけですけど相撲の世界の無茶ぶりと比べたら平和です。でも、楽しい環境だからこそ自分自身がちゃんとしないと取り残される。その中で石田有輝とはこういうプロレスラーだっていうのを見せていかなければならないと思っています。
――でも、小学1年生で両国国技館を経験しているというのは、物語になり得ますよね。
石田 そうなんです。あの時、何もわからずに立った両国国技館で、いつかはプロレスラーになって結びの一番(メイン)に立ちたいと思いますし。やっぱりあの会場には特別な思い入れがあります。
――樋口選手が果たせなかった夢を石田選手が。
石田 その意味でも大きな目標です。今回のタイトルマッチも、そこにつながっていると思えば譲れないんで。バッチバチのイケイケどんどんな試合をやった上で、最後は自分が立っていたい。
――考えてみれば、かつての坂口征夫さんのようなDDTにおけるバチバチ枠は今、空き家ではあります。
石田 そうなんです。だから、DDTでバチバチといったら石田有輝って言われるようになりたいです。それが形になった時こそ、シングルプレイヤーとしての自分が確立できると思うので。